その名はキリエス(3)
曲名は忘れたが、カーステレオから流れてくるメロディには和泉にも聴いた憶えがあった。昔流行った歌謡曲だ。失くした物など捨て置いて連れ立とうと誘いかけてくる女声ボーカル。どこの誰からのリクエストか、何という歌手がカバーした何度目のバージョンだったか、そのあたりを紹介する司会者のトークをすっかり聞きそびれてしまった。
ちらりと隣に視線を走らせる。
先輩の手を煩わせるのも悪い気がして、自分が運転席につこうと申し出はしたのだ。ところが、唯は頑としてハンドルを譲ろうとはしなかった。君は座ってるだけでいいぞ、と彼女は微笑む。車を走らせるのがよほど好きらしい。
SSSC専用の特捜車両とはいえ、ハウンドの内装は一般的な乗用車と大差ない。さして広くはない空間に唯と二人。余人の羨むシチュエーションとも言えるのだろうが、それを楽しめる余裕など和泉にはなかった。迷惑をかけてしまったばかりだ。唯に気にした様子はないが、ラジオに耳を傾けているふうにも見えない。
間が持てない。何か言わなければと思って、
「――しかし、」
「――あの、」
示し合わせたように声が重なった。
呼吸一つぶんの沈黙の後、唯が目元を緩めて、
「どうした? 言ってみろ」
「――さっきはすみませんでした。つい熱くなって……」
和泉は謝りながら、飛んでくるであろう質問について考えを巡らせる。
山吹隊員にあそこまで食ってかかった理由は何か。
それを尋ねられたらどう答える? 俺は最悪の事態を防ぎたいんです。正直にそう口にできればいい。しかし、確証もなく腰を上げるべきではないという山吹隊員の態度も現実と向き合った結果ではあるのだろうし、仲間内でいたずらに衝突するのも本意ではない。
予想に反して、唯は追及してはこなかった。
「べつに責めてはいないさ」
「でも、」
「議論するにも場を弁えろというだけだ。わかってくれたならそれでいい。なにも掴み合いの喧嘩を始めようと思ったわけじゃないだろう?」
最後は冗談めかした口調だった。基地で和泉らを諌めたときとはトーンの異なる、優しく撫でるような響き。
「なら、あとはもう堂々としてればいいじゃないか。考え方まで曲げることはない。君のああいう熱意はみんな買っているし……わたしだってその一人だ」
深みを感じさせる低いアルトの、やや掠れがちな唯の声を聞くうち、尖りかけていた和泉の心に平衡が戻ってきた。
「――にしても、意外だったよ」
「何がです?」
「君もあんなふうに声を荒げることがあるんだな。奥多摩で初めて会ったときは、何と言うか……もっとふてぶてしい奴に見えたが」
唯のその言葉は、驚くくらいすんなりと和泉の胸に滑り込んできた。心外だとは感じない。とうに痛みも疼きも消え去った、自分でも普段は意識すらしなくなった古傷を、改めて指でなぞられることにも似ていた。
ヘッドレストに頭を預けて考える。
――ふてぶてしい、か。
この人の言う通りかもしれない。
故郷を離れてからの十五年間、自分のために憤った記憶がない。目の前の現実をありのままの事実として受け入れ、心を砕かぬよう努めてきた。何に対してであれ順応する以外に生きる術はなかったし、今でも己の正しいあり方がそれであることは微塵ほども疑わない。
自分が不満を露わにするとしたら、その理由は――
「俺は、俺にできることをやってるだけです」
「ほう?」
物問いたげな唯の横目、
「いつだってそうしてきたし、これからもそうしていかなきゃいけないと思ってます。怪獣災害から皆を助けられるなら、そうしたい。だからECOの隊員を目指しました。怪獣がいるかもしれないのに最初からデマと決めつけて調べもしないなんて、俺には我慢できません」
和泉はそこまで言い終え、はたと気付いた。
――やられた……。
語らずにおくつもりだったはずだ。いつの間にか引き出されてしまった。自分の隠し事が下手くそなのか、それとも唯の誘導が巧みだったのか。後者であると信じたい。
とはいえ、不快なわけではなかった。
「すっきりしたか?」
「そう……ですね。すみません、色々」
「無理してまで話せとは言わないが、あんまり溜め込まないようにな。わたしでよければ相談に乗るから」
思えば、唯には出会ってから世話になりっぱなしだ。気にかけてくれるのは嬉しいが、これ以上甘えるのは気が引ける。
礼を言って笑おうとした。
「山吹隊員とも、時間があるときに一度じっくり話し合ってみたらいい。決して悪い人じゃない。腹を割って話せばきっと打ち解けるさ」
笑えなかった。
対話を尽くせばどんな相手とでも分かり合える――そんな絵空事を信じられるほど幼くはない。
建前なしの本心を見せ合ったが最後、山吹とは互いに折り合いがつかないところまでこじれてしまいそうな気がするし、そうなったらなったで仕方のないことだとも思える。
しかし、唯は真剣なようだった。
「案外、根っこのところでは似た者同士かもしれないぞ」
咄嗟には気の利いた返しを捻り出せなかった。和泉は口をつぐみ、唯もさらに言葉を重ねようとはしなかった。
カーステレオから歌が聴こえていた。
話題を変えよう。そう思って、
「――そういえば、桐島隊員はさっき何を言おうと?」
それを訊くか、と唯は眉根を寄せる。
「君と同じだ」
「ええと……つまり?」
「今していた話だよ。気が合うみたいだな、わたしたち」
東名高速に乗って厚木に入り、小田原を突っ切って芦ノ湖へ向かうルートを地図でなぞると、ほぼ直線上に繋がることがわかる。おとなしく座っていろと言うだけあって唯の運転には危なげがなく、下り車線の渋滞のなさにも助けられて、現地に着くまでには一時間と半分しか要さなかった。
調査本部が設置されているというホテルの駐車場にハウンドを停め、外に出た。あたりに宿泊施設は幾つかあるが、このホテルが湖に最も近い――と言うよりも本当に目と鼻の先で、しゃがみ込んで手を伸ばせば水に触れることもできる。
まるで海だ、とまず思った。
鬱蒼と緑を茂らせた山々に囲まれて、群青の水面が静かに揺れている。空にかかった雲は厚く、立ち昇る朝霧はどこまでも濃く、その白さに阻まれて富士の峰は見えない。
「ここ、本当に山の上なんですよね?」
「こういう場所には来たことがないか?」
「地元にはなかったですから。もっと小さい池や沼ならサバイバル訓練とかで行ったことありますけど……」
なるほど、と唯が頷く。
「まあ、たしかに写真や映像で見るのとでは違うか。こんなときでさえなければ良い場所なんだろうに、勿体ないな」
短い溜め息とともに発せられたぼやきを聞いて、湖を見つめる和泉の視線にも同情が混じった。唯の感想があまりにも的を射ていたからだ。
大量死の発覚から三日。死骸のほとんどは回収され、湖面には元の青い色が戻っているように見える。
しかし、臭いは誤魔化せない。
波間をじっくり眺めてみると、やはり多少の取りこぼしが目についた。客観的に評価して保健所は最大限努力したと言えるが、こうも水域が広くては、自然の分解に任せなければならない部分はどうしても出てきてしまうのだろう。
報道は全国ネットだった。観光業への打撃は避けられまい。
「――さてと、」
唯は気持ちを切り替えるような調子で、
「どうするかな。さしあたっての任務は水質調査だが……」
「何か問題でも?」
「調査委に探りを入れておきたい。実際にどこまで調べがついているのか、君だって気になるだろう?」
もちろん気になるに決まっていた。警察や自治体が核心的な手がかりを掴んでいるとは考えにくいが、一次報告書に記された内容が全てであるとも思わない。公表を躊躇ったデータがあるはずだ。秘匿しなければならなかったわけも。
和泉の無言を肯定と受け取ったらしい。唯は二秒と待たずに判断を下した。
「分担しよう。わたしは調査本部に顔を出して、挨拶ついでに聞き込みをしてくる。警察相手ならわたしが行く方がいい」
奥多摩の洞窟で聞いた話が想起された。唯もまた外部からの引き抜き組だ。元警官の唯ならば、スムーズに情報を引き出すことができるかもしれない。
「じゃあ、湖水の検査は俺がやっておきます」
和泉はハウンドのトランクからアタッシュケースを担ぎ出した。中には検査に用いる器具や試薬が詰まっている。
「使い方のレクチャーは……君には必要ないか。調査項目は把握しているな?」
「土いじりだけが能じゃありませんよ」
唯がくすっと吹き出した。
「では、頼んだ」
ECOPADでコマンドルームとの回線を開き、現着の報告と行動指針についての連絡を入れた。和泉がデータ採取にあたると聞いて、画面の中の藤代隊長は一瞬思案げに目を鋭くしたが、結局は止めなかった。
唯と別れ、和泉は岸壁に沿って歩き出す。落ち合う時刻は正午と決めた。時間はたっぷりあると言いたいところだが、いかんせんミッションエリアは広く、しかも深い。
骨の折れる仕事になりそうだった。
隊員であれば誰でも知っていることだが、ECOには〈ウェイバー9〉という潜航艇がある。
全長九・二メートルと小さく、最大乗員数は二名だが動かすだけなら一人でもさほど支障はない。本来の用途である海底探査はもちろん、淡水域で運用された例にも事欠かず、魚雷によって怪獣を倒した実績も少数ながら存在する。
なぜそれが今回使われないのかといえば、その理由は「近隣住民に配慮したから」の一言に尽きる。
山の中にある芦ノ湖にウェイバー9を投入するには、当然、輸送機に積んで運ぶ必要がある。大がかりに動けば人目につく。空振りのリスクを抱えたまま町民の不安を煽ることを、藤代隊長はよしとしなかった。
ECOがやって来れば、人々は怪獣災害を連想するのだ。
というわけで、和泉は貸しボート屋のオヤジに金を払い、エンジン付きのボートを調達しなければならなかった。
「経費精算ってどうやるんだっけな、っと」
船上でひとり呟きながら、採水缶を沈めてゆく。
土壌と湖水の違いはあれど、やることは奥多摩のときと変わらない。サンプルを採取してデータを集める。和泉はこの地道な作業が嫌いではなかった。
缶を引き揚げて蓋を開け、溶存酸素計を突っ込んだ。
「……2.88mg/L?」
県が発表した値よりも減っている。
だが、伏せた情報がこれだとは思えなかった。こんなものを偽ったところですぐに露見するし、そもそも二つの数字の間に本質的な差はない。
採水の深度を変え、何度も同じことを試した。計器を差し入れ、種類の異なる試験紙を次々と浸し、薬品を垂らして化学反応を観察してみて、いくつか判ったことがあった。
和泉はECOPADを取り出した。
「周防副長、応答願います」
『聞こえているよ』
「今そちらにデータを転送しました。届いてますか?」
確認しているような間があって、
『ふむ、phが低下しているね。酸素濃度が減少、二酸化炭素濃度は増加。六価クロムやシアン化合物は検出されず。ここまでは県のレポート通りだけど――ミネラル含有率がやけに低いね?』
「一次報告にはなかった情報です。硫黄を見てください」
『ほとんどゼロか……大涌谷の噴気地帯も近いし、温泉街だってある。そのあたりで硫黄が検出されないっていうのは、たしかに不自然だ』
「水温の上昇では辻褄が合いません。レキウム反応がないので、ひとまず侵食による変異ではなさそうですけど」
『――おや? この写真は?』
周防の目に留まったのは、和泉がデータに添付した魚の死骸の写真である。採水缶を回収したときロープに引っかかっていたのだ。
損傷が激しくていまいち判然としないが、おそらくニジマスなのだろう。腐敗しきっていないあたり死んでから日は浅そうだったが、食い荒らされた痕があり、それが直接の死因になったものと推測できた。
和泉がそう説明してやると、周防はECOPADの液晶画面の中でやおら背後を振り返り、藤代に向かってこう言った。
『第一種警戒態勢を検討しましょう』
それは即ち、怪獣の活動の兆候が間接的にではあっても観測されたことを意味する。
湖の底に、何者かが潜んでいる。
『送ってくれたデータはこっちでも解析してみるよ。二人はそこに留まって、引き続き調査を進めてくれ』
「了解」
ふと腕時計を見ると、正午が迫っていた。
時間切れだ。
釈然としないものを抱えながら、和泉は舳先を岸へ向けた。