彼女と俺
2限目開始前。講義室の中に、見知ったつやつやブラウンヘアの後頭部を見つけて、俺は駆け寄った。
相変わらず彼女は一人で、前過ぎもせず後ろ過ぎもしない位置で、長い講義室の机の端っこに座っている。
「絵麻ちゃん、おはよ!週末なにしてたの?」
別に、ひとめぼれ、とかじゃない。ただの興味だった。そうだ、今もそうなんだ。
そんな無意味な言い訳をひっそりと心の中で繰り返しながら、俺は今日も彼女の肩に触れながら話しかける。もちろん、いつもと同じで、大した返事は返ってこない。
また?と言いたげな顔をして振り向く彼女を見るのが、俺の月曜日の日課。相変わらずの表情の少ない顔が、にっこりと笑う俺を見上げる。
「聞いてどうするの。」
「えー、聞きたいだけだよー?トモダチじゃん?」
華麗に無視された。ふっとため息を残して、彼女―――高木 絵麻―――はゆっくりと視線を前に戻した。ちょうど教授が講義室に入ってくる。早く席に座れ、とでも言うように、彼女は俺を見もせずに顎をしゃくった。
毎週のことだ、俺はこれくらいじゃあ諦めない。
「隣、いい?」
「やだ。」
「なんでーぇ…」
「朝から五月蠅い。テンションが鬱陶しい。髪の毛が目障り。」
“うるさい”と“鬱陶しい”は、いつもお決まりのセリフだけれど。この週末に染めた髪色のことだろうか。きっとそうだ。せっかく秋に向けて少し変わった色に染めたのが、どうやら凶と出たみたいだ。
俺はがっくりと肩を落とした。
「いいよいいよ、じゃあ前に座るから…」
「うしろ。」
「えー、えー」
「髪、が、目、障、り。」
振り向いたら彼女の顔が見えるから、こうして隣に座ることを拒否され続けている俺は、彼女のド真ん前の席をいつもキープしているのに。
「絵麻ちゃんの前は譲らない!」
「馬鹿じゃないの。」
彼女のこの一言で、いつも会話は終了する。まるでタイミングを見計らったように、教授が授業を開始する一歩手前で発せられるから、俺はそれ以上反論のおしゃべりを続けることができなくなる。
***
絵麻ちゃんと初めて会ったのは、大学一年の春。今からちょうど半年前のこと。
マンモス校と呼ばれる規模の大学に入学した俺は、これからの大学生活に胸躍らせながら、月曜2限目の講義室へと足を踏み入れた。(講義室にたどり着くまでに、少し迷ったのは秘密だ。)
学部の一年生全員の必須科目のこの授業の講義室は、ある程度の広さがあって、結構多くの人がいた。教室内はまだ少しぎこちない雰囲気で、少しざわざわしていた。この授業でも席選びで、大学でのグループが決まるといっても過言ではないはずだ。
教室を見回しながら、さてどこに座ろう、と考えを巡らせる俺の背後から、凛とした声がした。
「すみません。早く進んでください。」
振り返ると、きれいな顔の眉間にしわを寄せた女の子が立っていた。毛先だけがカールしたつやつやブラウンヘアに、白い肌。どこか日本離れしたような精悍な面立ちの雰囲気によく合うパステルブルーのカーディガンを着て、黒いショルダーバッグを提げている。
なによりも印象的だったのは、アッシュブラウンみたいに薄い色彩の瞳が、まるでガラス玉のように感情のこもらないものだったことだ。
もちろん、これが絵麻ちゃんである。
「あ、すみません…」
席と席の間の通路のど真ん中に立っていた俺は、あわてて脇に飛びのいた。彼女は軽く会釈だけすると、さっさと誰もいない場所を探して席を陣取った。
今思えば、周りに流されない彼女が少しうらやましかったのかもしれない。
俺はちょっとの間、唖然として彼女の背中を見つめていたことだろう。数人が俺の脇をすり抜けていく。はっと我に返ると、一目散に彼女の横へと通路を進んでいた。
「隣、いいかな?」
「は?」
問答無用で隣に座った俺を見上げて、彼女は怪訝そうな顔をした。その後、授業中にもかかわらず、彼女を質問攻めにし、彼女の機嫌を損ねたのは言うまでもない。
***
それから半年だ、半年。
自分でいうのもナンだけれど、顔は悪い方ではないと思う。もちろん、絵麻ちゃんの横に並んだら若干見劣りすることは否めないけれど。それに成績がいい、とは言えないけれど。
どうして絆されてくれないのだろうか。こんなに毎週話しかけているのに。馬鹿っぽい服装がいけないのか。それともこの軽いノリか。はたまた髪の色の問題か。そもそも週一回ではダメなのか。
結局、彼女の前の席をキープした俺は、教授の眠気を誘う声をかいくぐって絵麻ちゃんを振り返る。
「絵麻ちゃん、今日学食いこう!」
「お弁当。」
「じゃあ、俺も買ってくるから!一緒に食べよう!ね!」
「馬鹿じゃないの。」
さらりと切り捨てられた。今日の授業はここまで、という教授の言葉とともに、絵麻ちゃんは流れるような動作で立ち上がった。ちょっと待って!で、待ってくれるような彼女ではない。
あっという間に、彼女のつやつやブラウンヘアは退出する人ごみに紛れて見えなくなった。
「絵麻ちゃん、冷血漢…」
「おー、ダイキ。また高木絵麻にちょっかい出して、フラれてんの?」
「フラれた言うな!お前も冷血漢か、ミヤケン!」
同情するように俺の肩を叩いたのは、同じ高校から同じ大学の同じ学部へと入学したミヤケン、こと宮田憲介。まーまー、と俺の肩を抱くと、こいつはニヤニヤ顔のまま俺と連れ立って講義室を出た。
「いいこと教えてやろうか、親愛なるダイキ君よ」
「きもいぞ、ミヤケン…」
「おーおー、聞けって。」
そうこうしている内に、講義室の前の廊下は随分と人が減っていた。気持ち悪い顔のミヤケンを横目に、俺は学食へと歩き出す。
「売り切れるぞ、今日の定食」
「定食よりもいいネタなのに?」
ピタリ、と俺の足が止まる。別にミヤケンの言葉のせいではない。
遠目に、絵麻ちゃんの姿を見つけたからだ。ジーンズを履いたモデルさん顔負けの脚で、二階の渡り廊下を渡っている。その横に、ふんわりとしたワンピースを着た小柄な女の子。それを追いかける男。
絵麻ちゃんが誰かと一緒にいるのなんて。
「高木 絵麻の隣にいるのは、文学部の広瀬 愛梨。で、その隣が西脇 悠斗。西脇は同じ学部だから知ってるだろ?全員同じ高校で、広瀬と西脇は付き合ってる。」
曖昧ながらうなずいた俺を見て、ミヤケンは表情を硬くした。
「又聞きだから、詳しくはしらねぇけど。あの広瀬って女、やばいらしい。」
「…やばい?」
「高校のとき、高木と西脇が仲良いのが気に食わなかったらしい。高木に近づいて、西脇を奪い取った挙句、高木が孤立するように陰で仕向けたとか。」
「なんだそれ。どっからそんな情報持ってくるんだよ…」
十分詳しい情報じゃないか、と俺が呆れてみせると、レコーダー(しかも性能が良すぎる)兼スピーカーのミヤケンはまたニヤニヤと笑った。俺を舐めるなよ、ということだろう。恐ろしすぎて、こいつには一生かかっても逆らえなさそうだ。
「それだけの事されてんのに気付いてないっぽくて、大学でも一緒にいる高木って頭いいのか馬鹿なのかわかんねーよな。」
嬉しそうに西脇の腕に腕をからませる広瀬という女が、絵麻ちゃんを連れて壁の影に消えるまで、俺は無言でその背中を見送った。
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