貴婦人(2)
数刻、彼らのやりとりが続いた。
結局、彼女たちの荷車が、轍にはまってしまい、難儀していることが分かった。
「早くそれを言え」
レラズは半ば呆れて、プフェから降りた。
「そうだ。初めから、そのように殊勝にすればよいのだ」
両手を腰にあてて、満足そうに何回も頷く、オスタラ。
「これこそ、おひい様のご慈愛が示された結果ですわ」
グーゲルも感動の表情をしている。
レラズは、二人の様子を見て、再びやれやれと溜息をつく。――そして、目標に対峙した。
「こいつか――」
荷車の車輪の一つが、道端の深い溝に落ち込んでいた。これは、簡単に脱出できそうにない。
しかし、レラズは一瞥して理解した。
「よし、やるか」
彼は、上半身をはだけた。
「な――何をしておる――!」
顔を真っ赤にして、オスタラは顔を背ける。だが、ちらちらと横目で、彼を覗き見ている。
グーゲルも、うっとりした表情を浮かべながら、レラズの肉体を鑑賞している。
レラズは、その屈強な肩を車輪にあてがい、力を込めた。
しかし、まったく微動だにしない。
もう一度、力を入れる。――すると、わずかに車輪が動いた。
「おおっ――!」
二人の女性が並んで歓声を上げた。
「む――」
繰り返し、力を込める。すると、徐々に車輪が回り出した。
――ずんっ!
大きな音がして、その荷車は元の街道に戻った。
その様子を確認して、オスタラとグーゲルは、拍手をしながら黄色い声を上げた。
「そなた、なかなかやるではないか」
「わたくしは、初めから信じておりましたわ」
まるでナハティの囀りのような、かしましい賞賛にレラズは辟易した。
レラズは、身体の砂埃を軽く払うと、無言で自分のプフェに跨った。そして、駆け出そうとする――。
「こ――これっ!」
慌てて、オスタラは彼を引き止めた。
「そなた。何を急いでおる」
「もう用はすんだからな」
「まだ、礼をしておらん」
「礼など無用だ」
「それでは、妾の気が収まらん」
二人は、押し問答を始めてしまった。
その様子を見ながら、グーゲルはおろおろしている。
どちらも譲る気配はなく、しばらく膠着状態が続いたが、渋々、オスタラの方が折れた。
「仕方ない。それでは、そなたに借りとしておいてやろう。……して、名は何と申す?」
突然の質問に、彼は戸惑った。
「名だと――? 友からは、レラズと呼ばれているが」
オスタラは、満足げに頷いた。
「そうか。レラズか。覚えておこう」
彼女は、大きく首を縦に振った。
そこへ、ようやくきっかけを掴んだようで、グーゲルが口を挟んだ。
「あの……レラズさま……」
グーゲルは口籠りながら、レラズを上目遣いで見ている。
「もし、よろしければ、この先、ご同行いただけませんか?」
彼は、グーゲルをじっと見た。
「わたくしたち、見ての通り、女二人旅で、大変心細いものですから――」
彼女は、ちらりとオスタラに目をやって、小声でレラズに言った。
「まったく、おひい様が、突然、お忍びをされると言い出すものですから――」
「――? 何か申したか、グーゲル」
オスタラは、少し離れた場所から尋ねた。
彼女は、先ほどレラズが持ち上げた車輪を観察していた。よほど感心したのだろう。ぺたぺたと叩いたり、自分でうんうんと力みながら、動かそうとしている。
「いえー、何でもありませんわー」
グーゲルは、しれっとした表情で返事をする。
「で、いかがでございましょう? レラズ様」
真剣な眼差しで、彼を見つめている。
レラズは、答えた。
「都まで行くところだが、そこまででよいのなら」
グーゲルの顔に、歓喜の色が満ちた。そして、後ろを振り返りながら、
「おひい様! おひい様! レラズ様が、アルフの都まで『ご一緒されたい』そうですわ!」
その言葉を聞いて、オスタラは駆け寄ってきた。
「おお、そうか、そうか。同行を許そう。旅は道連れというからな。一緒に参ろうぞ、レラズよ」
オスタラは、嬉しそうに彼に告げた。
レラズは、まんまと嵌められてしまったようだ。このグーゲルという女、なかなかやるな、と呆れ顔で思った。
彼女たちの荷車は、二頭立てだった。そこへ、レラズが騎乗していたプフェを繋げて三頭立てとした。
当然、レラズが御者役となり、前面の高い位置に据え付けられている板張りの席に座る。
すると、オスタラが彼の横に腰掛けてきた。
「お前は、後ろの幌の下で休んでいろ」
「いや、妾の車なのだから、妾も同席するぞ」
ロックの裾をたくし上げ、彼と同じように板の上に座った。
「おひい様、何て、はしたない。大公様が見ておられたら、お怒りになられますわ」
グーゲルが、またもやおろおろとする。
「よいのだ。グーゲルの代わりに、妾が御すこともあろうからの」
こんなお嬢様が、プフェを御す? レラズは少し意外だった。なかなかの器の持ち主のようだ。彼は、オスタラを少し見直した。
「アルフは、何用で参るのか?」
オスタラは、前を見据えながら、問い掛けた。
レラズは、一瞬、言葉を詰まらせてから、答えた。
「俺自身を探すためだ」
「自分を探す……?」
オスタラは理解できずに、聞き返した。
「そうだ」
その答えにならない答えを聞いて、彼女は頷いた。
「そうかそうか。そういうことも、あろうな……」
流れ行く木々に目をやりながら、何かを考えているようだ。彼女もまた、思うところがあるのだろう。
2、3アーウ過ぎると、山道を抜け、草原が目の前に開いた。ここから、アルフへは半ダイスもかからない。
草原は、まるで緑の海のようだった。一台の荷車は、一艘の小舟になり、軽やかに水面を滑っていく。
レラズは、手にしている手綱が、舟の舵輪のように思えた。このまま、自由に世界を旅してもいいのかもしれない……。
取り留めもないことを考えていると、グーゲルの叫び声が聞こえた。
「おひい様! 見えてきました――アルフの都が」
レラズも、その姿を目にした。高い城壁が、彼らを威圧するように立ちはだかっている。堅牢な城塞都市のようだ。
「これが、アルフか」
彼は、呟いた。
「そう。これが、ヴアルホルムの都・アルフだ」
隣で、オスタラも呟く。
彼らは、その城門に入っていった。