貴婦人(1)
「本当にすまなかった……」
レージンが、深く頭を垂れている。
「俺が不甲斐ないばかりに……」
彼は、手にしていた剣を地面に突き刺した。それは、まるでリョースの墓標であるかのようだった。
「それは違う」
レラズは、彼女の宝石を掲げたまま、応えた。
「これは、運命だ。誰が、悪いというわけではない――」
彼は、じっと目を閉じている。
しばらくして、レージンが口を開いた。
「レラズ、これを受け取れ――」
そう言って、何かを彼に差し出した。レラズは、一片の犢皮紙を受け取った。
「それは、臣民の“証文“だ。」
レージンは、笑みを浮かべた。
「これで、お前も立派な一般臣民だ」
レラズは、彼を凝視する。
「臣民であることを証明できなきゃ、都に行っても、結局、奴隷扱いされちまうからな」
彼は、遠い目をしている。
「奴隷階級から抜け出すのは、簡単じゃない。俺自身がよく知っているからな。それに、これを手に入れるのは、かなり手間暇かかるんだぜ」
そう言いながら、別の紙切れを手渡した。
「それと、こいつもやる。アルフに着いたら、取り敢えずそこに行って、これを渡してみろ」
そこには、『ドローミ』という名前と簡単な地図、それと数行の走り書きと彼の署名が記してあった。
「レージン……」
「まあ、何だ。俺も最後ぐらい、いいことしたいしな、あの娘のためにも」
レラズは、彼から視線を離せなかった。
「今回の件で、つくづくこの商売に嫌気がさしたよ。もう、奴隷商いはやめだ。何か、別のやり方で、てっぺんを目指すさ」
「……」
「この山道を抜ければ、都はすぐだ。お前は、そこで自由になれるよ。――それじゃあ、な」
そう言うと、レージンはプフェに跨り、大きく手綱を叩いた。
「また会おう、友よ――!」
彼の後ろ姿を、レラズは黙って見送った。彼もまた、同じ気持ちだった。
レラズは、道の傍らに彼女を埋葬して、小さく土を盛った。簡単な葬儀だったが、彼は精一杯の祈りを捧げた。
そして、帯刀で自らの左の耳たぶを突き、小さな穴を開けた。その穴に、リョースの貫通具を刺し通した。彼の耳元で、彼女の宝石が光った。
しばらくしてから、レラズはプフェに跨がった。
目の前に山道の入り口がある。この山岳地帯を抜けると、レージンが言ったようにアルフの都に抜けられる。彼には、その知識があった。
どうして、そんな知識があるのか、やはり思い当たるところがない。
――今、考えても仕方がない。
もやもやする気持ちを振り払うように、プフェを駆り立てた。今は、進まなければならないのだ。俺自身のために、また、リョースのために。
レラズのプフェは、山道の中腹に辿り着いた。木々の合間から、広大な平野が垣間見える。あの平原の先に、『都』があるのだ。
この国、ヴアルホルムの首都が、アルフだ。アルフは、帝都沿岸部に位置している。
ヴアルホルムの地方行政は、6区部に分けられている。
首都のある『帝都沿岸部』、隣接する『大草原部』。未開拓地である『中央樹海』。サースとノズンにそれぞれ『山岳部』があり、ウェスには広大な『砂漠帯』が他国と国境を隔てている。
それらすべての知識が、レラズにはあった。
さあ、都に行こう。そう彼が、心に思った時――。
「そこのお前、これをどうにかせよ」
女の声がした。
レラズは、突然の呼び掛けに戸惑い、狼狽えた。何だ――?
プフェの手綱を思い切り引いて、歩みを止める。そして、辺りを見回す。
「何をしておる。早う、妾の車を、どうにかせい!」
一人の若い女性が、仁王立ちしていた。
彼女は、長く美しい黄金の髪を鬱陶しそうに、後ろに払いながら、レラズに鋭い視線を向けている。
それは、鮮やかな蒼い瞳で、惹き込まれそうな、雰囲気を持っていた。
47、8メルトは、あろうか。女性としては、かなりの身長だ。躰つきも、凹凸がはっきりとしており、魅力的な体躯をしている。
その身に纏っている服も、彼女の高貴な出を表しているかのようだ。大きく裾が広がり、全体に細かい刺繍が施してある。おそらく使われている糸も、バオムのような庶民的なものではなく、金糸や銀糸を贅沢に縫い込んであるのだろう。
レラズは、その声の主をようやく認識した。
「俺を呼んだのか?」
彼は、プフェの上から、その女性に応えた。
すると、彼女の顔が、みるみる赤くなっていく。まるで、オクトのようだ、と彼は思った。
「無礼者っ!! 騎乗したままで、私に相対するとは、何事であるかっ――!」
きんきん声を上げて、その女性は喚いた。そして、文字通り地団駄を踏んでいる。
「おひい様、おひい様。落ち着かれなさいませ」
別の女性が、彼女を宥めている。こちらは、一転して地味な雰囲気だ。
その娘は、そばかすが目立つ小柄な女性だった。縮れた赤髪と茶色の瞳が、彼女の出自を物語っている。
身の丈、41、2メルト。この小さな体格も、彼女の貧相な雰囲気を、一層際立たせていた。おまけに、質素なバオム作りの一般的な庶民の服装だ。
「止めるでない、グーゲル。この男に、立場というものを、分からせるのだ!」
ますます、激昂する、女性。
「ああ、嘆かわしや、オスタラ様! このような下賎な者にこそ、おひい様のご慈愛を示すべきではありませんか――!」
グーゲルと呼ばれた女性は、よよよと泣き崩れた〈ように見えた〉。
「グーゲル、だからこそ、この男に申し伝えておる。礼儀をわきまえよ、と!」
「いえいえ、おひい様。寛容こそが、すべての臣民の模範となりうるのです! 今こそ、この輩に崇高なる愛の光をお示しくださいませ!」
レラズは、呆気にとられていた。二人は、一体何を語り合っているのだろう。
「俺は、もう行ってもいいのか――?」
すると、一斉に二人の女性が振り向いた。
「ならん――!」
「いけません――!」
きいっと、レラズを睨みつける。
レラズは、途方に暮れるしかなかった。