奴隷商人(2)
それから、1マヌスと3ウィカの刻が過ぎた。
レラズは、あの日からレージンの側に付き従うようになっていた。身辺を警護するためだ。
そして、傍らにはリョースがついている。彼女もまた、正式にレージンの身の回りの世話をする下女として雇われることになった。
「おい、レラズ」
レージンが机に向かい、真面目に事務仕事をしている。初めてその姿を見た時、レラズは自分の目を疑ったものだ。
「何だ」
相変わらず、ぶっきらぼうな口調で応える。
「おいおい、レラズさんよお――」
苦笑しながら書類から目を離し、彼に顔を向けた。
「これでも一応はお前の雇用主なんだがな、俺は」
彼の言うことが理解できなかったらしく、レラズは困惑している。
「まあ、いいや。――それより、明日、アルフへ行くからな」
アルフとは、この国・ヴアルホルムの都である。
「分かった」
レラズは頷く。
「ちょっと遠いが、そろそろ仕入た奴隷どもを卸さなきゃ、部屋が満杯になっちまうからな――」
部屋とは、初めて目覚めた、あの地下の牢獄のことだろう。
あのような部屋が、この屋敷の地下にいくつか存在しているようだ。しかし、さすがに今の身分となっても、自由に屋敷の中を歩き回れるわけはなく、その全容は窺い知れなかった。
そして、レラズは少し感慨に耽った。あのとき、牢獄に拘留されたままだったらどうなっていたのだろう。今となっては考えても無駄なことではあるが。
「そこで、ようやくお前に活躍できる場を与えられるというわけだ」
レージンの目が不敵に笑っている。レラズの腕前を実際に自らの目で見たいのかもしれない。
「あの、御館さま――」
レラズの背後から、涼やかな声がした。リョースだ。
「――御膳の用意が整いました」
彼女は、あの擦り切れそうな薄い布地とは打って変わって、清潔な下女の服を身にしている。褐色の肌が、白を基調とした伝統服に映えている。波打つような美しい栗毛は、きちんと頭の後ろで纏めてあり、かつて奴隷として囚われていたとは到底思えない姿だ。
「おう、リョース。今日も可愛いな」
レージンは、レラズの肩越しに声をかけた。彼女は真っ赤になって俯いてしまう。未だに彼が苦手のようだ。
リョースは、必要なことだけを伝えると、そそくさと部屋から出て行ってしまった。
「あれあれ。やっぱり、嫌われているのかな、俺」
ぽりぽりと頭を掻きながら、レージンはもういない彼女に言った。
「それより、お前ら。まだ寝ていないんだって――?」
唐突にレラズへ問を向ける。
「な、何を言っている――」
レラズにしては珍しく、慌てている。よほど、意表を突かれた質問だったのだろう。
「せっかくお前にくれてやったんだから、愉しめばいいのに。お前だって、男なんだろう?」
レージンは、にやにやしている。レラズの反応を楽しんでいるようだ。
「お、俺は男だが、奴隷を相手には、できない」
「そうかぁ? リョースも期待しているんじゃないか?」
「そんなことが、ある訳はない」
「お前を見る、あの目。絶対、お前からの誘いを待っていると思うんだがなぁ……」
そう言うと、レージンは窓の外に目をやった。大きく開け放った窓から、陽の光が差し込んでいる。
「それとさぁ――」
レージンがどこともなく眺めながら、続ける。
「お前、本当に何者なんだ?」
レラズは無言だった。
「――どうもお前を見ていると、不思議と夢物語とは思えなくなってくるんだよなぁ……」
彼と契約した日、レラズは己のことを語った。ミマメイズのこと、戦士だったこと、そして、楽園を追放されたことを……。
その時は、レージンに一笑されて終わったのだが、今になって思い出したのか。
「都行きが済んだら、お前たちを自由にしてやろうか――?」
――!
レラズは、レージンの横顔を凝視した。この男は、本気なのか?
「まあ、何にしても明日だ。――さて、飯にするか、レラズ」
その夜――。
レラズは、なかなか寝付けずにいた。
彼は、レージンの寝所に隣接した部屋を与えられていた。時折、女たちの艶かしい声が上がるので、少々辟易していたが、それもすぐに慣れた。ただ、今夜に限っては、そういった声も聞こえず、あたりはしんと静まり返っていた。
どうも、レージンの言葉が気にかかる。本当に俺は自由になれるのか? 自由になれたら、故郷に戻る術が見つけることができるのかもしれない……。
実のところ、もっと早い時期に力尽くで出ていくことはできた。彼の戦士としての直感から、ここの戦力は微々たるものであると感じていた。だが、あえてそうはしなかった。それは、何故か――。
――俺は、恐れているのか。
レラズは、真実を知りたいと思っていた。しかし、心の奥底ではそれを拒んでいるのかもしれない。もし、真実を知ってしまったら、一体どうなってしまうのだろう……。
「……あの……もう寝てる……?」
扉の外から、柔らかい声がした。リョースか。どうして、こんな深い時間に、訪れたのだろう……? レラズは、上体を起こして、応える。
「いや。起きているが……?」
「お部屋に入ってもいい――?」
何を躊躇っているのだ? そのまま、普通に入ってくればいいものを。彼は、部屋に入ってくるように促した。
「ごめんね。こんな時間に……」
リョースは、寝間着の裾をいじりながら、俯いている。
「本当は、もっと早くに御礼をいわなくちゃと思っていたんだけど、なかなかお仕事が忙しくて。今頃になって、遅いとは思ったんだけれど――」
御礼――? ああ、俺の契約のことか。レラズはようやく納得した。
「いや、礼などいらない。お前こそ、もう自由なのだから、故郷に帰ってもいいんだぞ」
リョースは、悲しそうな顔をした。
「あの日、あなたに付いていくと言ったじゃない。もう、わたしはあなたの物なのよ」
真剣な眼差しで彼を見つめている。そして、次の瞬間、寝床に上体を起こしているレラズに抱きついてきた。
「――お、おいっ、リョース! 一体、どうしたんだ」
リョースは、彼に抱きついたまま、胸に顔を埋めている。そして、呟くように言った。
「それなのに、どうしてわたしを求めてくれないの……?」
そうか。お前も寂しかったのだな。レラズは、ようやく彼女の気持ちに気づくことができた。
「分かった。お前は、俺の物だ」
その言葉に、リョースは顔を上げた。その瞳は涙で濡れていた。それは、悲しみの涙ではないことは、明らかだった。
レラズは、リョースを強く抱きしめた。そして、貪るように彼女の唇を求めた。
「いいのか……?」
彼は、言わずもがなの質問をする。
彼女は、固く目をつぶり、ごく僅かに首を縦に振る。
レラズが、リョースを押し開ことしたとき――。
「ごめんね……」
囁くように、彼女は言った。
「何を?」
「知っていると思うけれど、わたし、初めてじゃないの」
レージンか。あの日のことが、脳裏に浮かんでくる。
「初めては、好きな人にと、小っちゃい頃から思っていたのだけれど、もう叶わなくなっちゃった……」
急に、しくしくと泣き出すリョース。レラズは、優しく頭を撫でてやる。
「何を言っているんだ。お前が、好きだと思った男は、俺、なのだろう?」
彼女は、泣き止んだ。そして、彼をじっと見つめた。
「好きな男に身を任せるのは、今日が初めてじゃないのか?」
リョースは、口を抑えながら、小さく小さく歓声を上げた。今度は、ぽろぽろと大粒の涙を流している。
「泣く奴があるか。今夜は、お前の初めての夜なのだから、しっかりしろ」
「うん」
二人の影が重なっていく。
窓からは、いくつのも月の光が差し込んでくる。
今夜は、十二個うち半分の月が、天空を飾っていた。もう、四つ目のシザノの終わり、次のシザノの始まりでもあった。