神の国(1)
レラズたちは、控の間に戻った。
「いやはや、先程は肝を冷やしましたよ」
ドローミが、手拭いで額を押さえながら、大きく息をついている。
「まさか、王妃様直々に目を付けられるとは、やはり流石だなあ、レラズくんは」
たっぶり嫌味を込めてドローミは、言った。
だが――、
「大したことはない」
まったく意に介さず、返事をする、レラズ。その回答を聞いて、ドローミは溜息した。
「まあ、そうだよなあ、君は――」
「?」
レラズは、意味が分からず、首を傾げた。
「――失礼いたします」
二人のやり取りを遮る声がした。
扉を僅かに開いて、少女が顔を覗かせている。
レラズとドローミは、彼女に視線を向けた。
そこには、あのトゥローが立っていた。傍らには、茶器を載せた手押車がある。
「あの……冷たいテイをお待ちいたしましたので……」
その少女は、おずおずと部屋に入ってきた。しかし、一歩部屋に足を入れただけで、扉の側から動こうとしない。
レラズは、言った。
「ありがたい」
この言葉を聞くと、彼女は口元を緩ませた。
「いやあ、あなたは気が利くね。確か――トゥロ……さんといったかな?」
彼女は、飲み物の準備をしながら、僅かに頷いた。その小柄な身体を、ますます小さく丸めるようにして作業している。どうやら、日頃からの習慣がそうさせているようだ。
ドローミは、トゥローが話に乗ってこないので、残念そうな顔をしている。仕方なく、レラズに話題を振ってきた。
「それはそうと、レラズくん。先程の話だが、よくもまあ、王妃に目をつけられて平気な顔をしていられるねぇ?」
レラズは、小首を傾げた。
「目をつけられる……?」
やれやれといったように両手を上げて、ドローミは大きな溜息をついた。
「やっぱりなぁ。あの場面でもまったく動じないんだから、君は流石だよ――」
いつの間にか、トゥローが側にやってきて、彼らに茶器を差し出そうとしていた。
「ああ。ありがとう――」
レラズは、それを受け取ろうとした時、ドローミが続けた。
「――あの畏れ多いヨーレイ様に一喝されて、平気な顔をしていられるのは、この大ヴアルホルム中を探しても、君くらいなものだよ――」
――突然、陶器の割れる音が、部屋中に響いた。
そこには、茶器を足元に落とした、トゥローがいた。彼女は、全身をがたがたと震わせている。
「怪我はないか」
レラズは、咄嗟に声をかけた。
「ごめんなさい、ごめんなさい――」
トゥローは、彼の問い掛けに答えず、足元の陶器の破片を危なっかしい手つきで拾い上げながら、謝罪の言葉を繰り返している。
すると、彼女は声にならない声を上げた。同時に、破片を拾い上げるのを止め、自らの手を見つめている。
――か細い指から、血が滴り落ちている。
レラズは、彼女の腕を掴んた。
「な――何をなさるのですか!?」
この娘にしては、珍しくはっきりとした口調で叫んだ。
彼は、無言で彼女の腕を引きながら、切れた指先をじっと観察している。
「深い傷ではないようだな。指の根元を縛っておけば、じきに血は止まるだろう」
そう言いながら、彼は自らの上着の袖を犬歯で引き裂き、細い布の紐を作った。そして、トゥローの指を器用に縛る。
彼女は呆気にとられて、レラズの仕草を見ていた。商人組合の元締という、大変高貴な御方なのに、こんなことをされるなんて。私は夢を見ているのだろか……?
「取り敢えず応急処置をした。後で城の医者に観てもらえばいい」
素っ気ない口調で、レラズは言った。
「ありがとうございます、元締様」
深々と頭を下げる、トゥロー。顔を上げると、今まで一度も見せたことのない笑顔が、そこにあった。
「お、おう! トゥローさんは、そんな可愛らしいお顔をされていたんだねぇ」
ドローミが、目を丸くして驚いている。
「申し訳ありません。私、まだお仕事に慣れていなくて……」
トゥローは、再び伏し目がちになった。
「ここには、最近、来たのか?」
レラズは、尋ねた。
「はい。子守役としてお城に呼ばれたのです。私、赤ちゃんをあやすのが大得意なのですよ――」
にっこりと微笑む、トゥロー。おそらく、こちらが本来の姿なのだろう。彼女が、赤子を抱く光景が、はっきりと目に浮かんでくる。
「でも、それが叶わなくなって、このお仕事――給仕係に配属されたのです……」
――叶わない?
レラズは、脳裏に嫌な考えが過った。いや、まさか、そんなことはあるまい。
「今は、あの……第三王妃様――ヨーレイ様の身の回りのお世話をさせていただいております。でも、いつも失敗して怒られてばかりで……」
だから、彼女は王妃の名前にあれほど反応したのだろう。商人の元締であるレラズに対してもあの態度なのだから、侍女への対応は容易に想像できる。
レラズは、自分自身でさえ口にしたくない質問をした。
「子守ができなくなったということは、まさか――」
トゥローは、急に涙ぐんた。嫌な思い出が甦ってきたのだろう。その目元から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。
「本当は、絶対人に喋ってはいけないと言われているのですが……」
彼女は、口籠った。
しかし、意を決するように、真っ直ぐレラズを見つめた。
「元締様なら、お伝えしても良いように思えます。きっと悪いようにはなさらないでしょうから……」
レラズも、彼女の視線を真摯に受け止めながら、頷いた。
「一番お若い王妃様の身籠られたお子様が、お生まれになって直ぐ、お亡くなりになったのです――」
――死産か。
レラズは、唇を噛んだ。
「それも、国王様が待ち望まれていた、男のお子様でした――」
――其方は、決して余を悲しませることはなかろうな?
国王ハラルドの言葉が、ようやく理解できた。待望の世継ぎを失い、悲しみに暮れているのだろう。
しかし、まだ腑に落ちないことがある。一番若い王妃――つまり、第五王妃であるヴェッテルは、今、どこにいるのだ。何故、先の謁見の場に彼女はいなかったのか。彼の脳裏に再び嫌な想像が甦ってきた。
「彼女は――いや、ヴェッテルは、どうしている――?」
その名前を聞いて、トゥローは大きく瞳を見開いた。そして、今度はしゃくり上げるように泣き出した。
「私がお仕えするはずだった、王妃様は――」
トゥローは、涙ながらに言った。
「――お子様とご一緒に、神の国へ召されました……」




