商人(2).
新しい仕事が、始まった。
最初に与えられた『仕事』は、取引伝票を確認して、その枚数を合わせることだった。彼は内容をすぐに了解して、早速仕事に取り掛かった。
レラズのような大男が、机に向かっている姿は、傍から見てもかなり滑稽だった。まるで、森のベーアが甘い蜜を舐めるために背中を丸めているような、そんな格好である。
しかし、その微笑ましい姿からは想像できないほど、彼の手際の良さは眼を見張るものがあった。
「君は、どこかの商会で働いていたのかね? まったく大したものだな」
ドローミは目を丸くして、レラズの仕事ぶりを称賛した。
「いや、そんな記憶はないのだが……」
レラズ自身も不思議だった。
常識的に考えても、彼のような屈強な男が、いわゆる『事務仕事』をできるとは思えない。しかし、彼には、数字の計算も剣を扱うように容易く思えた。
その上、ドローミさえ見落としていた、数字の間違いも指摘することができた。
「レラズさん、本当に凄いです!」
ヨーラも素直に感心している。
「こういう数字の仕事は苦手でないようだ」
まるで人ごとのように、レラズは言った。
ドローミは、少し不敵な笑いをした。
「もし、数字に興味があるなら、これを見てご覧」
レラズは、渡された冊子を見た。
そこには、日々の入金と出金が記録してあった。いわゆる『帳簿』だ。
しかし、それには、毎日の取引を単純に記してあるだけで、今ある金、在庫、得意先の付けがいくらあるのかなど、直ぐに分からなかった。
「勘定ごとの帳簿はないのか?」
「勘定ごと?」
ドローミは、不思議そうな顔をしている。
レラズは、説明を始めた。
ドローミが差し出したものは、いわゆる『単式簿記』だった。レラズが言う、「勘定ごとの帳簿」とは、『複式簿記』による帳簿のことだ。
この世界には、『複式簿記』という概念がないようだった。
「おおう。確かにそれは便利だな」
ドローミは、神妙な顔付きで唸った。商人としての感性が、すぐさま理解したようだ。
「?」
しかし、ヨーラは頭上に幾つもの疑問符を浮かべている。まあ、当然のことではあるが。
「このやり方は、商人組合の元締にぜひ提案してみよう。……それと、勅令の件も確認しておかないと……」
呟きながら、ドローミは腕組みをして考えている。
「――そうそう、ヨーラ」
彼は、思いついたように、声をかけた。
「はい。何でしょう、旦那さま」
「彼を連れて、『付け』の取り立てに行ってくれないかい? 私は、組合に出かけてくるよ」
それを聞いて、彼女は固まった。だが、すぐに答えた。
「分かりました」
彼女は、レラズを連れて外に出た。
しばらく、二人は無言だった。
「何か、嫌なことでもあるのか?」
珍しくレラズの方が先に口を開いた。
「いえ、そんなことはありません……」
そう言うヨーラは、ますます暗い表情を見せた。レラズは、何かを感じた。
彼らは、何軒か回ったものの、別段変わったところはなかった。それどころか、行く先々でヨーラは、人気者だった。
出かける前に見せた、あの暗い顔は何だったのだろうか? レラズは、不審に思った。
「……次が最後です……」
そう言いながら、急に彼女の様子が変わった。
しばらく歩くと、とある店に到着した。店の前に『アウド通商』と書かれた、大きな立て札があった。
「あのー、ドローミ商会の者ですが――」
ヨーラが、声をかける。
しばらくして、店の中から声が聞こえた。
「――何だって?」
「ドローミ商会の者です」
彼女は繰り返す。
しかし、しばらくの間、何の音沙汰もなかった。レラズの方が、焦れたように彼女に問い掛ける。
「中に入らないのか?」
ヨーラは、彼の方に顔を向けて、首を横に振った。
そして、十数マニトほど店先に立ち尽くしていたが、ようやく店の中から一人の男が顔を出してきた。
「ああ? 何の用だ、ヨーラ」
その男は、まるで睨むように彼女に視線を向けた。いかにも胡散臭そうな風体の男であった。今まで横になっていたようで、ぽりぽりと頭を掻きながら、大あくびをしている。
「はい、アウド様。先日、当方にて取り寄せたフックスの毛皮――そのお代金を頂きに参りました」
ヨーラは、いかにも作り笑いのような顔をしている。それは、鈍感なレラズでも分かった。
「何、言ってるんだ、お前? こんな忙しいときに、そんなの後だ、後」
再び、大あくびをする男。
「アウド様、お代金をいただけませんと、当方が困ります」
「お前が困ったからって、俺には関係ねぇよ」
アウドは、鼻でせせら笑った。
「せめて一部だけでも……」
必死で食い下がる、ヨーラ。見ている方が、痛々しかった。
「面倒くせぇなあ。――だったら、お前の利子から1ダイス分でも当てておいてくれや」
彼女の表情が曇る。涙ぐみそうになるのを、ぐっと堪えている様子だ。
「それは関係ありません。――どうか、お願いします、アウド様」
その言葉を最後まで聞かずに、その男は店の中に入って行こうとする。
ヨーラは、男の服の裾を掴んだ。
「待ってください――」
男は、それが気に食わなかったのか、急に激昂して振り払った。
「俺に触るんじゃねえ! そんなに煩せぇことを言うなら、お前の借金、今ここで全額払いやがれ!」
アウドと呼ばれた男は、ヨーラに向かって吠えるように言った。そして、右手を上げて威嚇した。
「そこまでにしないか」
とうとう、我慢しきれずにレラズが、口を挟んだ。
「何だ、お前――?」
「女に手を上げるな」
レラズは、彼女を庇うように、その太い腕で遮った。そして、一歩前に進み出ようとした。
そこへ――、
「いいんです、レラズさん。今日は帰りましょう……」
ヨーラは、強引に彼を引っ張るように歩き出した。
「本当にいいのか?」
「はい……」
彼女は俯いたまま、小さく肯定した。
「今度来るときは、金を用意してから来いよ」
その男は、下品に笑いながら、彼女の背中に声をかけた。
彼女は、応えなかった。
「よかったのか、これで」
もう、男の姿は見えなくなっていた。彼らは、しばらく無言で歩いていたが、やはり今度もレラズの方から声をかけた。
「いいえ。よくはありません。……でも、今のわたしじゃ、どうしようもないんです……」
ヨーラは、弱々しく答える。その声は、まるで消え入りそうだった。
「確か借金と言っていたが、あの男に借りでもあるのか?」
小さく頷く、ヨーラ。
「わたしの家に、あの男がやって来なかったら、どんなによかったか……」
ヨーラは、語り出した。




