地下牢獄(1)
頬に冷たいものを感じる。
(……何だ……?)
彼は、身体を起こす。そのとたん、全身に激しい痛みを感じた。
「――っ!」
思わず、呻き声が出る。身体中に針を刺されたような、凄まじい痛み。しばらく、彼は息をすることもできずにいた。
「……目、覚めた……?」
うずくまり、身動きはできなかったが、確かにその声を耳にした。
(誰だ……?)
しばらくして、ようやく身体を起こすことができた。冷たいと感じたのは、石の床だと気づく。
彼は、やはり石で造られた冷たい壁に寄りかかりながら、少し息を整える。
「もう少し横になっていたほうがいいと思うよ――」
どことなく優しさを感じる声が、再び聞こえた。やっと、その声の主が、少女だと分かった。
彼は、鉛のような瞼を必死で開き、辺りをうかがった。しかし、周りは深い闇で覆い尽くされ、何も見えなかった。まだ、この闇に視界が慣れていないせいなのかもしれないが。
「どこか、怪我しているの……?」
その声に促されるように、身体の具合を確かめてみる。
確かに痛みは感じるものの、出血しているところはないようだ。少し手足を動かしてみたが、骨折している様子もない。
「大丈夫だ」
声が、出た。これか、俺の声か。
「よかった」
ふわりとした優しい音色。少し、全身の痛みが和らぐような気がする。
彼は、再び声を出した。
「ここは、どこだ……?」
その言葉を反芻する。
――ここは、どこだ?
いや、待て。それより、もっと大切なことが、疑問となってくる。その言葉が、声帯から発せられる。
「……俺は、誰だ……?」
「え――?」
先ほどまで、あれほど柔らかい音色だったのに、急に戸惑いの色が加わる。
「覚えて、ないの……?」
その声の主が、ようやく認識できた。少女だ。
彼女の表情が曇っている。できれば、その笑顔が見たい、と彼は思った。
「あなたが誰かって、わたしが分かるわけ、ないじゃない」
と、言って小さく笑う。そうだ。それが見たかったのだ。
「すまない――」
彼は、殊勝に詫びた。大きな体躯を、まるで小さなアイヒのように丸めながら。
「君は――?」
ようやく、彼は普通の会話をする。
「わたしは、リョース。あなたは……。あ……。名前、分からない……?」
その少女は、悲しそうに尋ねる。
彼は、次第に状況が掴めてきた。この暗さは、窓のない部屋の一室か。少し饐えた臭いもする。空気も淀んでいるようだ。
改めて、目の前の少女に視線を移す。
褐色の肌に、軽く波の打つような栗毛がかかっている。黒い瞳も潤んだように煌めいていた。
小柄ではあるが、程よい肉付きのある躰だ。だが、抱きしめたら折れそうな、そんな印象も受ける。身長は、40メルトを少し越えるくらいか。
身には、今にも擦り切れそうな、薄い布地を纏っている。服とは到底呼べない代物だ。
「その『絵』は、何……?」
リョースは、彼の胸元を指さした。
彼は、その指先に目をやった。そのとき、自らも彼女と同じような布地を身にしていることに気がついた。
彼女の指先は、彼の胸元に刻まれている文字を指している。彼女が『絵』と呼んだのは、このことか。
その刻印は、ヴアルホルムの公用語であるグァマル語で、記されていた。まるで家畜に焼き鏝で付けたような、荒っぽい仕上げだ。彼は、その文字を口にした。
「レラズ、という言葉だ」
「レラズ……。それが、あたなの名前なのかもしれないね――」
彼女は続ける。
「ごめんね。わたしは、ニダヴェリの出だから、文字が読めないの」
昔、ミマメイズにいた頃、ニダヴェリは辺境の地だと聞いたことがある。
……ミマメイズ。
そこは、彼の故郷だ。彼は故郷を追われ、この地・ヴアルホルムに辿りついたのだ。だが、どうやってこの地に来たのか、ましてや、追われた理由さえ思い出せない。
「ニダヴェリの者が、どうしてここにいるんだ……?」
彼は、素直な疑問を口にする。
「奴隷商人に掴まって、ここにいるの――」
彼女は、口元を少し歪ませて、言った。
「――あなたと一緒よ」
奴隷なのか、彼は独りごちた。いや、それより「一緒」とは……。何を言っているのだろう。俺が奴隷だと――。
それは断じて違う。俺は、ミマメイズの戦士だ。楽園を追われて、今、ここにいるのだ。俺は故郷に帰らなければならない。
――だが、その方法が、分からない。
レラズと呼ばれた男は、混乱していた。思わず、両手で顔を覆うとする。しかし、じゃらんという金属音がして、それは叶わなかった。
「何だ、これは……」
彼は、自らの腕を固く拘束している『腕輪』を凝視した。その腕輪は3センタもあろうかという太い鉄の鎖で繋がっている。
「鎖、きつい?」
リョースが、心配そうに覗き込んでくる。すると、彼女の動きに合わせて、同じような嫌な軋み音が聞こえてきた。彼女もまた拘束されているようだ。
「もし、きついようだったら、見張りの人に言ってあげようか?」
レラズは、腕から視線を下ろしていく。すると、やはり当然のごとく、彼の足首にもごつい円環がはめられており、こちらは4~5センタもの太さだった。
「いや、いい」
彼は、近寄ろうとした彼女を制した。
リョースが少し前屈みになったことで、身にしている薄い布地の前が、少し開けた。すると、彼女のへそのあたりに何か赤く光るものを見咎めた。
何だろうか……?
よく見ると、装飾用の貫通具のようだ。光っているのは、おそらく何らかの宝石なのだろう。ただ、奴隷という割には、こんな宝石を身につけているとは、驚きだ。
「あ、これね――?」
リョースは、少し微笑みながら、お腹のそれを指さした。
「これは、村の習わしで必ず女の子がつけるものなの。それぞれ違った『石』をつけてもらえるのよ。すごく綺麗でしょ――」
得意気に腰を突き出して、レラズにじっくり観察させようとしている。しかし、傍からすると、女が男を誘っているようにしか見えないが。
「本当は、ここに入れられる前に、取られようとしたんだけど、御館さまが止めてくれたの。このまま付けておいた方が、高く売れるって」
宝石が取られなかったことを単純に喜んでいるようだ。だが、その理由を考えると、レラズは暗い気持ちになる。
「おい――!!」
突然、野太い男の声が響いた。
「べちゃくちゃ、煩せぇぞ! この新入りども――!!」
薄暗い部屋の中で、禍々しい眼が光る。
あたりを見回すと、その男の他にも数名の人間――いや、奴隷たちがいるのを知った。そのすべてが、レラズとリョースを睨みつけている。
男の眼もあれば、女の眼もある。この部屋には、男女区別なく収容されているようだ。正確な数は分からないが、おそらく十数名はいるのかもしれない。
大声を上げた男の傍らには、2~3人の女がいた。皆がその男にしなだれかかっている。この男が、部屋の主なのだろうか。
「おおい、そこの女ぁ! 早くこっちへ来て、挨拶でもしねぇかっ!」
そういうと、卑下た笑いを浮かべながら、リョースの身体を舐るように、見回している。
「へっへっへ。よく見ると、結構な上玉じゃねぇか。最近、痩せっぽちのヤツばっかで、飽きていたんだよなぁ――」
その男は、股間に顔を埋めている女を引き剥がし、やはりじゃらじゃらした、耳障りな金属音をたてながら、ゆるりと立ち上がった。
その男は、レラズより頭一つ大きいようで、おまけにでっぷりとした腹がだらしない。ただ、その上腕には、男に似合わない、がっしりとした筋肉が張り付いている。日頃の肉体作業の賜物だろうか。
今まで女に覆われていた、ぬらぬらと光るそれは、男の欲望を如実に表している。
リョースは、がたがたと震えだした。それが、レラズにも伝わってくる。
「早くしねぇかっ!!」
とうとう痺れをきらしたのか、男は前にもまして大きな声を出した。びくっと、リョースが身体を強ばらせた。
男がゆっくりと近付き、彼女の腕を掴む、と――。
「いい加減にしろ――」
レラズが、立ち上がった。もはや、さきほどまでの身体の痛みは消えていた。これが、本当の俺の身体だ、と彼は思った。
身の丈は、50メルトを優に超えている。大柄で、がっしりとした体躯。どう見ても、普通の奴隷、いやそれどころか、一般の臣民でないことが、はっきりと分かる。
銀髪を短く刈り込み、緑の瞳が印象的だ。逞しい肉体と、美しい髪と瞳。その姿を眺めているだけで、美術的価値のある彫像が、この世に生を受けたような気分にもなる。
「何だ、おめぇ」
じろりと男が彼に視線を向けた。
その視線でレラズは身体の中に電流が走るような感覚をおぼえた。ある種、本能的なものだった。
ぎりぎりと全身の筋肉が、緊張していく。おそらく、それは『快感』と呼べるものなのかもしれない。
これが、彼の本当の『覚醒』だった――。