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売店のおばちゃんとチョコレート

作者: STAYFREE

 最近、チョコレートを買うようになった。落ち込んだ時に。

普段は甘いものはあまり食べない。でも、辛いことがあった時は甘いものが、特にチョコレートが食べたくなる。

 仕事の帰りの地下鉄の乗換駅。小さな売店で、うつむき加減で、何も言わずに赤いパッケージのミルクチョコレートと百円玉と十円玉をトレーに置く。

「はい、五円お返し」

 お釣りをもらう時にちらりと店員の顔を見る。どこにでもいそうな五〇代ぐらいのおばちゃん。

 三路線が乗り入れるこの駅には乗降客でたくさんの人がせわしなく行きかっている。上りの電車、下りの電車が到着する度にたくさんの人が電車の中から飛び出してくる。これだけたくさんの人がいるのに皆、わたしと同じような生気のない表情をしているように見える。

 電車に乗る前にチョコレートのパッケージを開けて一粒、口の中に入れた。いつも買うこのチョコレートは一口サイズのチョコが十二粒入っている。

 甘い。朝から苦い思いしかしなかったわたしの脳みそが今日初めて感じた甘いという感覚だった。

 二粒目を口に入れる。そして、ため息をつく。仕事でミスをした。取引先に大変な迷惑をかけてしまった。単純な発注ミスだった。部長に怒られた。次にミスをしたらクビだと言われた。この能無しが!と怒鳴られた。

 三粒目を口に入れた。電車が突然、急ブレーキをかけた。手に持っていたチョコレートはわたしの手から抜け落ち、床に落ちた。残っていた九粒はすべて床に散らばってしまった。

 電車は動き出して、自分が降りる駅へと到着した。わたしは自分がばら撒いてしまったチョコレートを拾う気力もなく、そのままの状態でホームに降りた。


 それから二週間後、わたしはまた売店でチョコレートを買った。売店の店員は前と同じ顔のおばちゃんだった。

 わたしはまたうつむき加減で何も言わずにトレーに赤いパッケージのチョコレートと百円玉と十円玉を置いた。

「はい、五円お返し」

 前回と同じようにおばちゃんの顔をちらりと見る。やはり、前と同じおばちゃんだ。


 わたしにはひそかに思いを寄せていた男性がいた。同じ部署の三歳年下の男性。いつも明るくて、元気で、頭が切れて、仕事もバリバリこなし、人当たりもよく、稚拙な表現だけど太陽のような笑顔をもったさわやかな男性だった。

 そして、彼は自分の周りの皆にやさしい、思いやりのある男性だった。 それは美人でもかわいくもない、何のとりえもないわたしにも……。

 一週間前、私は風邪をひいて体調を崩してしまった。朝起きて、体温を測ると熱は三八度一分。

 何でもない普通の日であれば、仕事を休ませてもらうところだったが、その日は大事な会議があり、休むわけにはいかなかった。

 しかも、その会議は彼がリーダーで、社運のかかった……とまではいかなくてもとても重要なプロジェクトの会議だった。

 わたしは無理を押して出社をして会議にのぞんだ。意識は朦朧としていたが、会社の為に……いや、好きな人の為にすこしでも力になるのだと、頭がい骨の中心から、頭の中を四方八方に広がる痛みに耐え、胃からせり上げってくる、無情で非情な吐き気と闘いながら、必死に会議室の椅子にへばりついていた。

 会議が始まり、十五分が経過した時だった。では、資材調達のコストとその実用性について、斉藤のほうから説明させていただきます。

名前を呼ばれ、立ち上がったその時だった。必死に闘っていた、無情で非情な生理現象にわたしは屈してしまった。

会議室の机の上に液体が滴りおちる。会議室の中に酸性の嫌なにおいが立ち込める。

「斉藤さん! 大丈夫ですか?体調、悪いんですね?すぐに医務室に行きましょう」

 ざわつく重役たちの視線を遮るように彼はわたしの横に立ち、わたしの腕を優しくつかみ、会議室から出て医務室へ連れて行ってくれた。

「ちょっと、顔が赤いなあとは思っていたんですけど、気づかなくて本当にすみません」

 わたしのような人間にこんなにやさしい言葉をかけてくれた男性が今までにいただろうか?

 わたしは彼に恋をした。でも、それは叶わぬ恋だった。


 彼が皆の前でわたしの同期の女性と結婚をすると報告をした。大事なプロジェクトの途中でこんな報告もどうかと思ったのだけどと彼は言っていたが、同僚は皆、びっくりした顔で二人のことを祝福した。

二人が結婚するような関係であったことにわたしはもちろん、誰一人として気づいていなかった。

 わたしは彼への思いが叶うなどとは夢にも思っていなかったが、やはりショックだった。わたしがひそかに思いを寄せていたことなど、彼は知る由もなかっただろう――。

 わたしは失恋した。これが今日チョコレートを買った理由。

 電車に乗る前にチョコレートのパッケージを開けて一粒、口の中に入れた。甘い。ただ、甘いという味覚しかない。

 その“甘い”は自分が持っているどの感情とも結びつかなかった。

 ホームに電車が到着する。いつもはたくさんの人が降りてくるのに、なぜか今日はあまり人が降りてこない。

 電車に乗り込んで、二粒目を口に入れる。三粒目、四粒目、残っている十一粒をすべて口の中に放り込む。

 まわりの乗客がちらりちらりとわたしを見る。わたしの口の中はチョコレートでいっぱいになり、頬は限界まで膨らみ、やがて目にはうっすらと涙が浮かんでくる。

 わたしは次の駅で降り、ホームにある水飲み場の排水溝に口の中に残っているチョコレートをすべて吐き出した。

 チョコレートをすべて吐き出しても涙は止まらなかった。


 また……わたしは駅の売店でチョコレートを買った。翌日のことだ。理由は何もない。

 いや、自分が嫌だから。嫌いだから。情けないから。自信がないから。

売店の店員はいつもと同じあのおばちゃんだった。売店の前に立って、手をのばそうとしたわたしに、赤いパッケージのチョコレートを手に持っておばちゃんが言った。

「これだね」

「……」

 わたしは何にも言葉を返せなかった。

「元気出しなよ。そんなにつらいことばかりじゃないよ。頑張っていれば必ず、いいことがあるから!」

「……」

 温かった。おばちゃんの言葉がとても温かくて胸にジーンと沁みた。でも、不思議と涙は出てこなかった。

 トレーに百円玉と五円玉を置いた。お釣りがないはずなのにおばちゃんはわたしのほうに手を伸ばしてきた。

 おばちゃんの手がわたしの手を優しく包み込んだ。おばちゃんは何も言わずに穏やかな笑顔で一度、頷いた。

「……ありがとう」

 ちいさな、ちいさな声でわたしはそう言った。おばちゃんはわたしの顔をみてもう一度頷いた。

 電車が来た。私はなぜかチョコレートのパッケージを開ける気にはならなかった。

 そのまま、電車はいくつかの駅に停車し、発車をし、それを繰り返していく。電車が自宅の最寄りの駅に到着した。売店で買ったチョコレートは未開封のままでバックに入っている。

 駅から出て、自宅までの道を歩く。私の横を自転車に乗ったサラリーマンがなかなかのスピードで追い越していく。さらにその横の片側四車線の大きな車道を大きなトラックがかなりのスピードで追い越していく。

 わたしは普通なら自宅まで徒歩十分の道を倍の時間をかけて歩いた。帰り道を歩くときはいつも、暗いことばかり考えていた。でも、今日はなぜだか少しだけ気持ちが落ちついている。

 自宅に着いた。バッグをベッドの上に放り投げて、冷蔵庫を開けて牛乳をだし、コップに注ぐ。

 牛乳を一口飲んだら、甘いものが欲しくなった。わたしは、はっと思い出してバッグの中から駅の売店で買った赤いパッケージのチョコレートを取り出した。

 パッケージを開けて、一粒口の中に入れる。

「おいしい」思わず声が出る。

「……おいしい」胸が詰まる。

「おいしいよぉぉぉぉっ……」涙があふれる。

 その時のわたしの頭の中に駅の売店のおばちゃんのやさしい笑顔が思い浮かんだ。

 わたしは赤いパッケージのチョコレートをすべて食べきった。食べきることができた。


 次の日、わたしはまた、駅の売店でチョコレートを買った。トレーに赤いパッケージのチョコレートと百円玉と五円玉を置く。

 その時のわたしは、ほんの少しだけ、笑顔を浮かべることができた。

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[一言] ひょんな事から、あなた様の作品を丸々コピペしているブログを発見いたしましたので、参考までにご報告致します。 http://ameblo.jp/zenmaru87/entry-11176717…
2012/05/07 22:06 通りすがり
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