四の巻〜『一期一会。』
朝、体のかゆさに目を覚ました。首や手、足を、蚊に刺され、掻きすぎたのだろうか赤くなっていた。
『やれやれ、蚊に好かれても仕方がない…』ぶつぶつと言いながら、田に流れ込む水で顔を洗った、夏でも冷たい水の流れを、しみじみ眺めていた。
雲間から、差し込む日差しに背中を押されるように、また孫一は歩いていった。『今日は暑くなりそうだなぁ。』
どれくらい歩いただろう。孫一は、汗を拭いながら歩き続けていた。今年は例年にない長雨だったが、太陽が、やっと出番だとばかりの強い日差を出している。『なんだか、道が急になってきたなぁ。こっから山登りかぁ』
今にも、へたり込みそうになってきたが、小さな茶屋を見えた。金はなかったが、思わず飛び込んだ。
『ふぅ。参った参った』股を広げ、裾をバサバサと扇ぎ、手拭いで顔を拭っていた。
『いらっしゃい、なんにしますかぁ?』年は十五、六だろうか、娘の甲高い声に孫一は黙り込んでしまった。『すまんが…、金を持っていないのだ。水を頂けないか?』
『そうですか。わかりました』と少し不満そうに娘は、奥に戻っていった。『はい!おまちど!』
大きな握り飯と茶がそこにはあった。孫一は、目を丸くし娘を見て戸惑っていると
娘が『母ちゃんがね困った時は、助け合いだってさ!お金無い人にだすのかい?って言ったら、怒られちゃった。』と言っていると、奥から娘の母だろう『いつまで、しゃべってるんだい!これから忙しくなるんだよ』と娘を急かす声がした。その母が、孫一に微笑んだ顔を見つけると孫一は、ただ、『かたじけない。』と会釈し、大きな握り飯にかぶりついた。
『ご馳走になって、すまなかった。何か手伝えないか?』と言うと、母は『ええよ、そんなことまた寄って下さいな』と孫一を見送った。
孫一は仕方なく行こうとしたときに、店の脇に薪にするのであろう、丸太を見つけた。
『薪を作るのは、ワシにも出来るだろう』すぐに引き返してきた。
母は、少し驚いた様子であったが『しょうがないね、それじゃあ、お願いしようかね』少し呆れたように微笑んだ。いつもは、娘がやっている仕事なのか、一番娘が嬉しそうだった。孫一は、袖をまくり、襷掛けに縛り『フン!フン!』と無心で斧を振った。
周りで鳴く蝉の声の中に、『パカッ』と薪を割る、こきみのいい音と共に、孫一は心地のよい汗を流してた。孫一の両脇には、小さな薪の山が出来ていた。
『わぁ、まぁ、こんなにすまないね。これで十分だよ』母親がやってきた。
孫一『では、私はこれで…。』
母『ちょっと、待っててね』と何か思い出したように引き返した。
母と娘二人でやって来て、『これをお持ちください』と竹の葉で包んだ、握り飯を孫一にくれた。
孫一は、涙を流しそうになった。今まで人を信じて生きて行きたいと思っていたが、自分の見た目がいけないのか、疎まれ、何かあれば疑われ、人にやさしくされる。事に慣れてなかったからだ。
母は『変な侍だねぇ、泣いとるのかい?』娘も不思議そうにじっと、孫一を眺めていた。
孫一『いやいや、違うんだ、泣いとりゃせん!かたじけない、遠慮無く頂きます』精一杯に強がった。
置いてあった刀を差し、涙を悟られまいと『それでは』と歩きだした。
すると娘が『お侍様!髭が無い方がきっと男前だよ!』と言った。それでじっと見といてたのかと孫一は気付き『ほっとけ!!』と嬉しそうに怒鳴った。
いつの間にか、西に傾いた太陽を睨み付け、またゆっくりと歩き始めた。
『髭かぁ。』さっき言われたことを少し気にしする孫一だった。 しかしながら、暑い。
陽炎がゆらゆらと前にある人や物を揺らしている。
後ろから、威勢のよい声が聞こえてきた。
籠屋である。
徐々にその声が近づき、あっという間に孫一を追い越していった。
鉢巻きをして、籠を担ぐ男の隆起した体に汗がにじみ、動くたびに飛びかっていた。
『ご苦労さんだのぅ』思いながら、孫一は無言で見送り、今の自分を少し恥ずかしくなった。道の脇にすこし出来た木の影を一つ一つ追うように歩いた。
孫一は歩きながら、最近続く人の親切に不思議がっていた。
いままで、歩いてきた中で、この辺りはやたら優しすぎる。
店の店主だって、普通なら俺は、無銭飲食で代官所につれていかれちまうし、さっきの茶屋だって、大概はすぐに追い返されちまう。こうした偶然にも続く幸運に孫一は『俺にも運が向いて来た』かと、上機嫌だった。
あんなに激しかった日の光が和らいできた、孫一は『やっぱりついてると』先を急いだ。
『んっ?』まわりは少し薄暗くなってきた。重く黒い雲が増えてきた。『雨か、参ったなぁ』ボタッ…ボタッ…。っと粒の大きな、雫が乾いた地面に落ちると、小さな砂煙をあげ、地面を黒く塗りはじめた。
その刹那、激しい雨が降り出し、目の前の景色を白い滝のように変えた。
孫一は、どこか体を休めるところはないか駆け出した。
少し走ると、右側に階段が見えた。孫一は急いで駆け上がった、激しい雨が階段を包むように伸びた木の葉に当たり、雨音は波のような音に変わった。階段を上がり終えると、小さな神社があった。
そこには既に、雨宿りの先客がいた。
見たところ行商人のようだ、軒下から恨めしそうに空を見上げていた。
賽銭は無かったが、とりあえず手を合わせ、濡れてしまった着物を脱ぎ、壁にくくり付けていると。
『まったく、よく降りますなぁ』関西なまりで、さっきの行商人が話し掛けてきた。
孫一の肩ほどまでの小男で、孫一を見上げるように話し掛けてきた。『ほんとだなぁ』とやたら馴々しいこの男に、さすがの孫一も警戒していた。
今までも、こうした男に騙されてきたからだ。 男は続けて『わてもなぁ、少し前まで刀を差してましたんや。』『旦那も刀差しとると色んな意地張りますやろ?』
孫一『…まぁ、そうだなぁ。』
男『せやから、意地も刀と一緒に捨てました。』
孫一『…。』
男『今は気楽なもんですわ。
でもなぁ、こうやって薬や針を売っていても、他の奴との戦やで!でも、こういう戦の方が、ええわ。
』男は、孫一を昔の自分に語り掛けるように、話していた。
『あかんなぁ、ちっとも止まへんわ。しゃあないこれからでも、商売や!じゃあ旦那も気張ってな!』
そう言うと、荷を雨から防ぐように念入りに包み、傘をかぶり飛び出していった。
雷の光に少し怯えながら、水溜まりをうまく飛び越え、あっという間に走り去っていった。
孫一は、その生き生きした姿に圧倒され、何も話せなかった。
そして、今の自分を改めて考えた。
うすうす気付いてはいたが、自分は武士というものには向いていない。
だが、自分には武士であるというもの以外何もない…
『どうしたら、いいんだ。』と、ただ意味もなく歩く旅に一気に嫌気がさしてきた。
そもそも、この旅も『この道をずっと行けば、江戸にまでだって行ける』と聞き、なんとなく始めた旅であった。
ときどき光り鳴る、雷に辺りが明るくなるが、今の孫一には、まったく気にならなかった。
今まで自分をただ、ぼんやりと振り返っていた。
孫一は半ば、やけ食いのように茶屋で持たされた、握り飯を胃に流し込み、夕立の涼しい空気に身を丸め、いつしか眠りに就いていた。