第99話:絶望の交代劇
かつて人類の希望を繋ぎ止めていた中央戦線は、
もはや見る影もなかった。
勇者たちが不退転の覚悟で守り抜くと誓った「旧トラネス城塞」は、
魔王軍の進撃を前に紙細工のように呆気なく崩壊した。
防衛線は下がり続け、
ついには背後のない最後の砦――王都へと追い詰められていた。
王都の外縁、最終防衛線。
ここが落ちれば、それはもはや人間側の敗北。
そこにあるのは、
一方的な『終焉』の光景だった。
「……ぐはっ……!」
一真が膝をつき、激しく血を吐いた。
その手にある剣は、
かつての輝きを失い、煤けたようにどす黒く変色している。
隣では美咲が魔力を使い果たして膝を突き、
健吾が盾を砕かれながらも、二人の前に立って必死の形相で守っていた。
彼らの目の前には、ただ一人。
漆黒の鎧を纏い、次元そのものを切り裂くような禍々しい刃――《常闇の剣》を静かに構えるバルザークがいた。
「……終わりだ、勇者ども。
お前たちの抵抗は、完成された世界を乱すノイズに過ぎない」
バルザークが剣を正眼に構える。
その一振りで、この防衛線は、そして彼らの命は完全に「停止」させられるはずだった。
一真は死を覚悟し、奥歯を噛み締める。
だが。
「…………?」
振り下ろされるはずの剣が、不自然に止まった。
バルザークが、戦場とは別の、遙か北の空を仰ぎ見たのだ。
「……そうか。牙が剥かれたか」
独り言のように呟くと、バルザークは構えを解いた。
あろうことか、絶好の機会を前にして、
彼は一真たちに背を向けたのだ。
「……命拾いしたな、勇者ども。……獲物が変わった。
我が行くべき場所は、ここではない。
北の古い力が、ようやく動き出したようだ」
圧倒的な戦力差。
追いかけることすら叶わない威圧感を残し、
バルザークの姿は陽炎のように揺らぎ、次の瞬間には闇の粒子となって溶け消えた。
嵐が去った後のような静寂が流れる。
「……行っちゃった……の……?」
美咲が震える声で漏らす。
一真もまた、全身の力が抜けるのを感じた。
バルザークが放っていた、あの息もできないほどの圧力が消えたのだ。
「一体、何が……」
健吾が呟く。
「理由はわからない……だが、
今のうちだ。動ける者を回収し、防衛線を再構築するんだ!
まだ、立て直すチャンスはある……!」
一真の必死の鼓舞を受け、兵士たちは絶望の淵から這い上がる。
傷ついた仲間を運び、瓦礫を積み上げて新たな陣を敷いた。
誰もが「最悪は去った」と自分に言い聞かせ、
わずかな安堵の中で必死に手を動かしていた。
だが、その希望もわずか数時間後、
傷を塞ぐ間もなく地平線を埋め尽くす**「黒い波」**によって無残に踏みにじられた。
地鳴りとともに現れたのは、
空を遮るほどの軍旗、そして大地を覆い尽くす魔物の大軍勢。
その先頭に立つのは、
北部戦線を蹂躙した二つの「影」だった。
「あはは……いいわねぇ。
絶望の淵を這い上がったと思った瞬間の、その間抜けな顔。
本当に、最高に美しいわ」
暗黒の影法師リシュヴァが、三つ首の蛇を蠢かせながら艶然と微笑む。
その傍らには、家屋ほどもある棘の巨躯グローデンが鎮座していた。
「ねえ、驚いた? この大軍……どこから来たと思う?
…..これはね、北部戦線を『片付けた』子たちよ」
「北部……戦線……?」
一真の顔から血の気が引く。
「嘘だ……悠真はどうした!
あいつが、簡単に抜かれるはずがない!」
「あら、死んでないわよ。でも、這いつくばって、
仲間の死体を踏み台にして逃げ回る姿は……そうね、まさに『泥人形』。
あんな無様な生き物、もうあなたの知っている英雄じゃないわ」
彼女にとって、この戦場は勝利を得るための場所ではない。
勇者という高潔な魂が、無惨に、無意味に、ただの肉の塊へと崩れ落ちる瞬間を
特等席で眺めるための「劇場」に過ぎないのだ。
「ここから先は、私たちがたっぷり可愛がってあげる」
グローデンが咆哮し、無数の棘が雨のように降り注ぐ。
一瞬の安堵は、より深い奈落へのプロローグに過ぎなかった。
最終防衛線は、もはや統制の取れた戦場ではなかった。
押し寄せる黒い波と、死に物狂いで剣を振るう王国軍。
硝煙と返り血が視界を濁らせる完全なカオス。
「押し戻せ!」
「王都が終わるぞ!」
将兵たちの叫びも空しく、
数に勝る魔物の軍勢が防衛線を次々と食い破っていく。
その中心部、破滅の渦巻く最前線にいた一真たちの元へ、
一閃の光が突き刺さった。
「――貫け、《天穿の槍》!」
空を切り裂く轟音とともに、黄金の軌跡が魔物の群れを薙ぎ払う。
「悠真……!?」
血にまみれた一真が目を見開く。
そこには、強行軍を続けて駆けつけた悠真が、
リィナとセレスを従えて絶望の渦に飛び込んできた。
「死なせやしない。……一真、ここからは、
俺たちも混ぜてもらうぞ!」
悠真が叫ぶと同時に、リィナが電光石火の動きで
一真の背後に伸びた刃を弾き飛ばす。
「生きてたのか!」
「ああ、死に損なったんだよ! 行くぞ!」
悠真は《天穿の槍》を回転させながら突進し、魔物の群れを薙ぎ払う。
セレスが多層結界を展開して仲間たちを守り、
リィナが高速で敵の側面を崩していく。
再会の喜びを噛み締める余裕など微塵もなかった。
悠真たちの前に立ちふさがったのは、
かつて北部戦線を文字通り「消し飛ばした」悪夢そのものだったからだ。
「あら……お久しぶりね。
逃げ足だけは速いから、二度と会えないものかと思っていたわ。
けれど、自分から死にに来るなんて、本当に滑稽ね」
リシュヴァが艶然と微笑む。
彼女の周囲でうごめく三つ首の巨蛇が、
一斉に細い舌をチロチロと出し、獲物の恐怖を確認するように蠢いた。
「……っ、相変わらず、吐き気のするプレッシャーね」
リィナの指先が、恐怖と嫌悪でかすかに震える。
ドォォォォン……!!
地響きとともに、巨躯グローデンが岩山のような腕を振り上げた。
「衝撃波が真っ直ぐ来るぞ、退けえええっ!」
悠真の怒号に合わせ、全員が即座に散開する。
直後、目に見えない圧力が一直線に走り、大地が爆ぜた。
「っ、なんて馬鹿げた威力だ……!
これをたった一人で放つのかよ!」
健吾が砕けかけた盾を必死に構え直す。
戦況は依然として最悪だが、絶望一色ではなかった。
一真、美咲、健吾。そして悠真、リィナ、セレス。
選りすぐりの戦力が揃い、持てる技術のすべてを注ぎ込んで、
ようやく「二人の魔将」の猛攻を凌げるかどうかという綱渡りの戦いが成立していた。
「地面!影が来るぞ!」
悠真の警告が飛ぶ。
「ちっ……煩わしい小蝿ね」
リシュヴァが不快げに口端を歪める。
狙いを見透かされた影の鎌が跳ね上がり、
セレスの多層結界に激突して火花を散らす。
間髪入れず、グローデンの背から放たれた無数の棘が襲いかかるが、
それを美咲の放つ高圧の水弾が空中で叩き落とす。
「くそっ……防ぐだけで精一杯か……!」
悠真は槍を握りしめ、歯を食いしばる。
(だが……さすがは勇者たちだ。この化け物相手に、ここまで渡り合えるとは……。
一点特化の加護は伊達じゃない……!)
しかし、感心している暇はなかった。
魔将たちの底知れない魔力は、
冷酷に彼らの限界を削っていく。
嘲笑う二体の魔将と、地平線を埋め尽くす魔物の大軍。
包囲網は、じわじわと、だが確実に狭まっていた。
その時だった。
戦場の空気が、一瞬にして凍りついた。
戦意も、殺意も、
すべてを上書きするような絶対的な「異変」。
リシュヴァが、そしてグローデンが、
同時に動きを止めて「北」の空を凝視した。
「……あら」
リシュヴァと三つ首の蛇たちが、
邪悪な弧を描いた。
「終わったみたいね。
……世界で一番、『余計なもの』が」
不吉な予感に、
悠真の背筋に冷たい汗が流れる。
次の瞬間――。
遙か北の果てから、
天を衝くような漆黒の巨大な衝撃波が世界を駆け巡った。
第99話、ありがとうございます。
ここから“格が変わります”。
次回『神話の終わりと、黒き騎士の剣』
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