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第91話: リィナの叫び、魔将の包囲網

北部戦線は、

すでに「戦場」の体を成していなかった。


防壁は継ぎ接ぎの板と土嚢の寄せ集め。

陣地は仮設の域を超え、崩れかけている。


兵たちの瞳には、

泥のように重く澱んだ疲労だけが沈殿していた。


敵の侵攻は止まらない。

焦りも怒りもなく、ただ淡々と「作業」のように押してくる。


物量で。圧で。時間で。

命をヤスリで削るように。


今日も同じ光景が繰り返されるはずだった。

だが――その日、空が「沈んだ」。


歪んだのではない。

物理的に、空の色が一段階暗く塗り潰されたのだ。


見張り台の兵が、

肺の空気を漏らすように呟く。


「……違う。何だ、あれは」


地平線を埋め尽くす軍勢が、

まるで道を空けるように左右へ割れていく。


その中心に現れたのは、

一歩ごとに大地を沈ませる圧倒的な巨体だった。


棘だらけの甲殻が、

鈍く陽光を拒絶する。


――四大魔将、グローデン。


その隣には、

軍勢よりもなお濃い「影」を纏う人型。

輪郭は陽炎のように揺らぎ、肩口からは三匹の蛇が這い出している。


――四大魔将、リシュヴァ。


見張りの声が、

乾いた音を立てて裏返った。


「魔将……それも、二体同時に……?」


叫びですらない。

あまりに巨大な絶望を前にした、力なき呟き。


「四大魔将が北へ転進! 軍を直率しているぞ!」


伝令の悲鳴が走った瞬間、

空気が変わった。


それは疲労ではない。

死を確信した生物が、本能的に抱く「忌避」の色だ。


グローデンが、

太い腕をゆっくりと持ち上げる。


距離はある。届くはずがない。

振り下ろされた刹那、世界が爆ぜた。


目に見えない衝撃が一直線に奔る。

コンマ数秒遅れて爆音が追いついた。


前線の防柵が木っ端微塵に弾け飛び、

兵たちが紙屑のように空へ舞う。

地面がめくれ、土と肉が交じり合った。


「……は?」


理解が追いつかない。


リシュヴァが指をわずかに動かすと、

陣地の足元から黒い「影」が噴き出した。


兵たちが音もなく沈んでいく。

声を上げる暇すらない。


「全隊、散開しろ! 包囲される!」


指揮官の怒鳴り声も虚しく、

魔王軍の輪が広がっていく。左右へ、そして後方へ。


北部戦線を丸ごと「呑み込む」巨大な円環。


「退路が――」


言いかけた言葉が、風に消える。

逃げ道が、静かに、確実に絶たれていく。


これは戦いではない。

ただの「踏破」だ。


リシュヴァが愉悦に唇を歪める。


「ふふ、急がないで。

彼らがどんな顔で絶望に染まっていくのか……じっくり観察したいの。

逃げ場なんて、最後の最後で奪ってあげればいいわ」


彼女たちは急がない。

確実に輪を狭め、王国軍を一点へと押し縮めていく。


その中心には、悠真たちの野営地があった。


♦︎


同時刻。中央戦線。


月明かりすら届かない岩陰で、

一真は息を殺していた。


心臓の鼓動が、

耳の中でうるさいほどに鳴っている。


「……今だ」


闇に溶け込むように身を低くし、

剣を抜かずに全力で駆け抜ける。


完璧な死角。完璧なタイミング。

これまで何度も成功してきた奇襲だった。


――刹那。


振り向きもしないバルザークの背中が、わずかに動いた。


常闇の剣が、

まるで意志を持つ生き物のように勝手に跳ね上がる。


ギィィンッ!!


嫌な金属音と共に、

一真の剣が弾き飛ばされた。


衝撃で腕が痺れ、

身体が後ろへ吹き飛ぶ。


「……遅い」


低い、冷たい声。


直後、横から美咲の魔法が炸裂した。


「《アビス・ランス》!!」


圧縮された水槍の斉射。

夜の闇を裂く蒼い奔流が、バルザークを狙う。


大地が抉れ、猛烈な水煙が上がる――!


だが、常闇の剣が一閃。

水槍は、まるで幻のように消滅した。


蒸発したのではない。

概念ごと、「存在」を削り取られた。


「効かない……!」


一真が歯を食いしばり、

再び距離を詰める。


美咲の魔法が援護する中、

必死に死角を狙う。


「終わりか?」


バルザークの声は、

まるで天から降ってくるようだった。


黒い刃が横薙ぎに一閃。

見えない斬撃が空間を切り裂き、巨大な岩ごと大地を両断した。


「散開!!」


一真が叫ぶ。


間一髪で跳び退くが、

後衛の数名が音もなく消滅した。


肉体も、装備も、叫びすら残さず、

存在ごと虚空に呑み込まれていく。


正面突破は不可能。

だからこその奇襲、夜襲。


あらゆる手を尽くしたが、

ことごとく弾かれる。


「勇者とは、この程度か。

期待外れだ」


バルザークが歩くたび、

折れた角から魔気が溢れ、

空気を重く濁らせる。


「無駄だ。

貴様らの未来は、すでに閉じている」


常闇の剣が、ドクンと心臓のように脈動した。

再び中央の一角が、音もなく消し飛ぶ。


「後退だ! 距離を取れ!」


退くほどに包囲は狭まる。

魔王軍は焦らない。


確実に、容赦なく、削り取られていく。


「少しでもいい! 足を止めろ!」


それでもバルザークは止まらない。

ゆっくりと。確実に。


王都へ向けて前進を続けていた。


♦︎


北部野営地。薄暗いテントの中。


悠真は、動けなかった。


座り込んだまま、

焦点の合わない目で床の泥を見つめている。


外の喧騒が、ひどく遠い。


「悠真……」


布が開く音。

リィナが入ってきた。


頬には撤退戦でついた煤が残り、

猫耳は力なく垂れている。

瞳には隠しきれない疲労が滲んでいた。


「リィナ……ごめん。俺、もう……」


言葉が続かない。喉が閉じる。


「謝らないでよ」


即答だった。


「謝ったら、

あたしたちの信じてきたものが、全部間違いだったってことになっちゃうじゃん!」


悠真は目を伏せる。


「間違いだったんだよ」


絞り出すように。


「俺が触れなければ……

あの剣は壊れなかった。俺のせいなんだ」


リィナが歩み寄り、

悠真の前に膝をつく。


震える手を、痛いほど強く握りしめた。


「……あたし、忘れてないよ」


「……え?」


「悠真と初めて会った、あの洞窟。

あなたがゴミみたいな鉄屑から、見たこともない光を作り出した時のこと」


悠真の指が、わずかに動く。


「あれは……偶然なんかじゃない!」


リィナの声が激しく揺れる。


「悠真は、あの時――未来を選んだんだよ」


記憶の蓋が軋みを上げて開く。


「……洞窟?」


初めて「進化」の力に震え、

リィナと出会い、運命を変えた、あの場所。


「そういえば……

あそこには、何かがあった。俺が、見落としていた何かが」


その時。

大地が、これまでにない規模で激しく揺れた。


――ズドォォォォン!!


「北壁が破られたッ!!」

「魔将だ!! 二体同時に来やがった!!」


外からの悲鳴。


それでも悠真は動けない。

足が泥に埋まったように重い。


リィナの顔色が青ざめる。


「……近い」


外から、ゆっくりと近づく重低音。


ドン。

ドン。

ドン。


「左右から来てるぞ!」

「退路が塞がれる!」


「悠真、立って」


「……もう、いいんだ、リィナ。

どうせ勝てない」


リィナの瞳が、怒りに変わる。


「悠真!!」


リィナが、

これまでにない怒声で叫んだ。


彼女に引きずられるようにして外へ出た悠真の目に、

地獄が映る。


北部戦線は、

巨大な半円状の軍勢に包囲されていた。


「だめ……完全に囲まれる……」


リィナが息を呑む。


確実な死の距離が、縮まっている。


「……もう、無駄だよ。

何度退却したって、立て直せっこない。どうせ勝てないんだ」


その声は空虚だった。


「だからって、

このまま何もしないで諦めるの!?」


リィナの瞳が燃えるように鋭くなった。


悠真が視線を逸らしたその先で、

逃げようとした兵が横から来た魔王軍に叩き返される。


「退路が閉じるぞ!!」


叫びと悲鳴。

包囲網が、さらに狭まる。


状況はもう明白だった。

このままでは全滅は時間の問題。


退却以外の選択肢が、

現実的に残されていない。


リィナが悠真の胸ぐらを掴んだ。


「ばかっ! 悠真は逃げる人じゃない!!」


その背後で、

黒い軍勢が静かに輪を完成させていく。


魔将はまだ二人に気づいていない。

だが、包囲の円の中心は、残酷なまでにこの野営地へと収束していた。


ゆっくりと――


悠真の拳が、わずかに震える。

後悔と恐怖。そして記憶の底から湧き上がる「何か」。


逃げ場のない包囲網の中で、

運命が再び一箇所に集まっていく。


それでも、

悠真の瞳は沈んだままだった。

第91話、ありがとうございました。


この選択がすべてを変えます。


次回『リィナ、悠真を信じて散る』


★で応援いただけると嬉しいです。

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