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第55話:選んだ世界、新しい朝

金青の光が甲板を包んだ瞬間、世界は息を止めたように静まり返った。


閉じかけた門だけが、かすかに鼓動しながら脈打っている。その縫い目の向こう――摩天楼の残像がまだ、煙のようにゆらめいていた。


セレスもリィナも声を失っていた。ただ、唇を噛みしめ、固唾を飲んで悠真の背中を見つめることしかできない。


――閉じるか。――渡るか。

もう覚悟は決まっている。すべて終わらせる。――それだけは、譲れない。


……なのに。


視界の奥で、薄れゆく都市の影。交差点を走る人影、奇妙な金属の鳥が空を渡る音、眩い広告の光……。


胸の奥が、痛いほど揺れた。


(……帰れるのかもしれない……本当に)


喉の奥で、乾いた笑いが漏れた。


「……わかったよ」悠真は低く笑い、肩の力を抜いた。「あはは……選べばいいんだろ?」


言葉とは裏腹に、指先は震えていた。覚悟はある。迷いも振り切ったつもりだ。


――それでも、惹かれてしまう。


(ここに残るのか、それとも……)


懐かしいあの世界の光が、門の底で手招きするように揺れている。


閉じるべき門。戻れるかもしれない故郷。そして、自分の選択ひとつで決まる未来。


悠真はゆっくりと門へ手を伸ばした。


冷たい。けれど、胸の奥が熱くなるほど懐かしい。


(……俺は……)


光が脈動し、選択を迫るように掌へ食い込んだ。門は、閉じもせず、開きもせず、ただ悠真の決断を待つように揺れている。


そのとき、背後から――震えるような、でも確かに届く2人の声が重なった。


「悠真ー!」


切実で、祈るような叫び。それは、悠真の背中に突き刺さり、胸の奥の揺らぎを一瞬で溶かした。


(……ああ、わかってるさ。俺は、もう決めたんだ!)


その声に導かれるように、悠真の唇が微かに動いた。


「……俺は――」


言葉の瞬きとほぼ同時に、門を包む光がふっと強まった。


海も空も、船も、世界のすべてが一拍だけ金青に染まり、風のざわめきさえ消える。


世界は――次の瞬間、どちらかに傾く。


「……俺は――この世界に残る!!」


その叫びが、門を貫き、次元を、運命を、すべてをねじ伏せた。


《黎明の導印》が呼応するように脈動し、灼けた刻印が胸の奥まで金青の奔流を叩き込む。悠真の意志に応じて三つの特性が同時に立ち上がり、門を“永遠に開かぬ楔”へと変えた。


鮮やかだった摩天楼の影が、霧のように遠ざかり、粒子となって散っていく。


(……さよなら、俺の世界)


そのつぶやきに、導印の光が一際強く弾けた。門を縫っていた赤い糸がすべてほどけ、世界へ金青の光が奔る。


――音もなく、門は閉じた。


裂け目は光の羽のように散り、すぐに消え去った。


残ったのは、ただ夜の海と、静かに揺れる波の音だけ。


悠真は肩で息をしながら甲板を見下ろす。


――そこにあったはずの《黎明の導印》が最後の輝きを放つと、淡い粒子となって霧散していった。彼はゆっくりと膝をつき、掌でそのまだ温かい場所をそっと撫でた。


「……勝った、の……?」リィナが涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら言った。


悠真は優しくうなずいた。「……ああ。もう、帰れない」


セレスが静かに近寄り、船べりに手を置く。「でも……見えたんでしょう?あなたが生まれ育った世界を」


悠真は目を細め、静かに笑う。「そうだね……夢みたいに、一瞬だけ」


(……でも、いつか――)


海風が変わる。もう魔力の風ではない、潮の匂いのする風だ。夜空には月が戻り、薄い光を海に落としていた。


月の向こう、雲の切れ間に――


ほんの一瞬だけ、ビルの輪郭が浮かび、すぐに霞んで消えた。


残像か、記憶か、それともまだ見ぬ未来の予兆か。まるで「ここからが始まりだ」とでも言っているかのように。


「……本当に、終わったんだな」悠真がつぶやく。


セレスが優しくほほえむ。「ええ。あなたが終わらせたのよ」


リィナが両手を広げて飛びつく。「悠真!無茶しすぎ!」


三人はそのまま甲板に座り込み、海風を胸いっぱいに吸い込んだ。


波が静かに寄せては返す。さっきまでの激闘がまるで幻だったかのように、夜明け前の青空がどこまでも広がっていた。


悠真は最後にもう一度、消えた門の場所を見やった。


(……あの光景は……。ただの残像ではない、現実の世界だった……)


胸の奥で、刻印の脈がほんのりと熱を帯びた。ゆっくりと息を吐く。


「……帰ろっか」


セレスとリィナが頷く。


こうして、長い戦いに終止符が打たれた。だが悠真の心には――閉ざされた世界の向こうへの微かな憧れが、まだ温かく灯っていた。


ーーーーー


陽光が港を金色に染めていた。数日ぶりの静かな朝だ。


潮風には焦げた魔力の匂いも残っていない。代わりに魚市場の湯気と、船大工たちの笑い声が混じって漂ってくる。


悠真は桟橋の端に腰を下ろし、靴を脱いで足を海へ浸した。


冷たいのに、妙に柔らかい。戦いの後に触れる水は、こんなにも違うのかと思う。


リィナが屋台で買った焼き魚を両手に持って、にこにこしながら近づいてくる。


「ほら、これ、朝市の一番。食べる?」


「ありがと。……すっかり普通の匂いが戻ったな」


「やっと安心してお腹いっぱい食べられるね」彼女はそのまま海辺に腰を下ろし、魚にかぶりつく。尾をぱたぱた揺らしながら見上げた空は、雲ひとつない。


「あ、そうそう」リィナが口をモグモグさせながら思い出したように言った。


「エルムの妹、リオナちゃん、完全に元気になったそうだよ。昨日、エルムが港に来て“大恩人です!”って頭下げてた」


悠真は目を細めて笑った。「……そうか。よかった」


少し離れたところでは、セレスが子供たちに魔法を見せていた。


掌にほんのひとすじ魔力を流し込み、小さな氷の鳥や花をつくって渡すと、子供たちは歓声をあげて走り去っていく。


戦いのなかで見せた氷の魔法とはまるで別物の、繊細で、ただ美しいだけの魔法。セレスの横顔には微笑みがあった。


「……いいな、こういうの」思わずこぼれた悠真の声に、リィナが耳をぴくりと動かす。


「にゃ?」


「いや、なんでもない。ただ……こうやって港に座って、魚食べて、海を眺めてるのが……いいって思っただけだよ」


「そりゃそうね。人間はずっと戦いっぱなしなんて無理だもの」


魚の身を口につけたまま言うその表情が、やけに明るい。


遠くで船の鐘が鳴った。出航の合図らしいが、悠真は立たなかった。


今はただ、潮騒と笑い声と子供たちのはしゃぐ音に包まれた、この平和な朝を噛み締めたかった。


(……この世界はまだ終わっていない。まだ間に合うんだ……)


彼は目を閉じ、小さく息を吸い込んだ。潮風の匂いは、戦いのときよりずっと鮮やかだった。


波は穏やかに、港の石段を撫でている。陽光の反射が水面に揺れ、悠真の頬を照らす。


少し間を置いて、子供たちを送り出したセレスが軽い足取りで近づいてきた。


「二人とも、何を話しているの?」


「いや、セレスの魔法って本当に綺麗だなって。繊細だし、ただ見ているこっちまで楽しくなるよ」


悠真の言葉に、セレスは少し照れたように視線を落とし、それから遠い目をして微笑んだ。


「……ありがとう。でもね、これは、私を導いてくれた先生のおかげなの」


「先生?」悠真が問いかける。セレスに天才的な魔法の師匠がいることは、以前、本人から聞いていた。


「ええ、私の師匠。私がまだ小さくて、雪嶺の村にいた頃……周りのみんなから『精霊の声が聞こえるなんて気味が悪い』って遠ざけられていたの。魔法も失敗ばかりで、自分の力が怖くて、毎日泣いていたわ」


セレスは胸元の古びたブローチにそっと愛おしそうに手を置く。


「その時、先生が私を優しく抱きしめて、おかしな数え方を教えてくれたのよ」


「数え方?」


「ええ。先生のお母様の一族に伝わる、遠い、遠い先祖の教えなんだって。……世界には、『やおよろず』の神様がいるのよって」


「――っ!?」悠真の身体が、一瞬で凍りついた。


リィナの焼き魚を分けてもらおうと伸ばしかけていた右手が、空中でピタリと止まる。


「……セレス。今、なんて言った……?」


引きつった悠真の声に、セレスは不思議そうに小首を傾げた。


「え? やおよろず。――『八百万はっぴゃくまん』って意味よ。もちろん本当の数じゃなくてね、それくらい無限に、目に見えないすべての自然や物質にちいさな神様……つまり精霊が宿っているっていう意味。だから、その声を聴けるあなたの耳は、何よりも尊い。怖がることなんてないわって、私のすべてを肯定してくれたの」


セレスは当時の救われた記憶を愛しむように、懐かしそうに微笑んでいる。


だが、悠真の耳には、もうその後の言葉は入ってこなかった。


心臓が、耳元で鐘を打ち鳴らされたかのように、激しくドクドクと警鐘を鳴らす。


比喩表現として「無数の精霊」を例えるなら、この世界なら『星の数ほど』や『千や万の』と言うのが普通だ。だが、セレスが明確に口にしたのは――八百万やおよろず


それはこのファンタジー世界に存在するはずのない、悠真の生まれ育った日本にしか存在しない、『多神教の概念』そのものの響きだった。


(その先生の先祖……お母様の一族に伝わる言葉……?)


(じゃあ、その先生の先祖は……俺よりずっと前にこの世界に流れ着いた、『あっちの世界の人間』だったっていうのか……!?)


すぐ近くに――失ったはずの故郷の『足跡』が、あまりにも鮮烈に遺されていた。


「悠真……?顔色が悪いよ。どうかしたの?」セレスが心配そうに、青い瞳で顔を覗き込んでくる。


「あ、いや……なんでも、ない。ただ、凄く深い、いい言葉だなと思って……」


悠真は必死に声を震わせないよう、乾いた喉で生唾を飲み込んだ。


消えたはずの、掌に触れた刻印の痕が、かすかに、熱く疼いた気がした。


この世界の深奥には、まだ俺の知らない『何か』がある。


その謎の鍵を握る、「その先生」とは、一体何者なんだ――。


陽光の反射が水面に揺れ、悠真の驚愕を隠すように眩しく弾ける。


新しい日常が始まったその朝、悠真の心には、閉ざされた世界の向こうへと繋がる、新たなる謎の灯火が静かに、だが激しく灯り始めていた。


世界は動いている。新しい日常のなかで、誰もが自分の場所を見つけようとしている。悠真もまた、そのひとりだった。

第55話、感謝です。

物語はさらに深くなります。


次回『雪嶺の少女と天才魔法使いルヴェリア』


面白ければ★お願いします。

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