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第105話: 極北の慟哭と、古竜の取引

王都の熱狂が遠い夢のように思えるほど――そこは、生命を拒絶した「死の荒野」だった。


北の最果て。

地吹雪が視界を白く染め上げ、巻き上がる雪のつぶてが容赦なく頬を切り裂く。


悠真とともに進軍する王国軍の兵士たちは、寒さと恐怖に歯を鳴らし、前方の異常な光景に言葉を失っていた。


地吹雪の中を突き抜けるような、

腹の底にまで響く重い轟音が鳴り響く。


「……何だ、あの影は!?」


隣を走る健吾が、顔を覆いながら声を荒らげる。


魔王城に近づくにつれ、視界を埋め尽くしたのは、絶望的な突撃を繰り返す巨大な翼の群れだった。


「竜だ……。竜族が、魔王城を攻めてる……!」


リィナが、猫耳を小刻みに震わせながら呟く。その切実な声も、地響きのような咆哮に掻き消された。


主である竜王を失い、

復讐に狂った竜たちが、

天を衝くほど巨大な『漆黒の障壁』に対し、

その巨体を弾丸のようにして体当たりを敢行していた。


だが、そのたびに障壁から漆黒の雷が爆ぜ、誇り高き竜の翼を焼き、鱗を裂き肉を抉る。


力尽きた竜たちが、物言わぬむくろとなって雪原へと降り注ぐ。白銀の雪はすでに竜の鮮血でどす黒く染まり、凍てつく中でなお異様な湯気を上げていた。


「ひどい……。これじゃあ、ただの自殺じゃない……!」


美咲が震える手で杖を握りしめ、あまりの惨状に顔を背ける。


障壁を辛うじて突破した数体の竜も、城門の前で待ち構える魔王直属の近衛騎士団と血みどろの乱戦を繰り広げていた。


「……立ち止まっている暇はない。最短距離で抜けるぞ」


悠真が懐からあの『黒い結晶』を取り出した。一歩、足を踏み出す。


竜の骸が山を成す地獄のど真ん中。

その凄惨な道の先で――。


「止まれ、人の子よ」


重厚な、大気を震わせる声が響いた。

積み上げられた竜の死骸の頂。そこに、一頭の異質な竜が鎮座していた。


その姿は、あまりにも痛ましかった。巨躯を支える翼はズタズタに裂け、体中には幾千の戦いを超えてきたであろう、醜くも誇らしい戦傷が刻まれている。


くすんだ灰色の鱗をさらすその竜は、一見すれば死を待つだけの老体に見えた。


だが、その瞳だけは――濁ることのない、燃えるような黄金の輝きを宿している。


「な、何、この圧は……。ただの竜じゃない……!」


セレスがその圧倒的な威厳に気圧され、思わず後退りした。


老いた竜は、悠真の手にある結晶と、その胸の奥に眠る《進化》の気配を射抜くような眼差しで見つめた。


「我ら竜の誇りは、あの黒き壁に砕かれた。竜王なき今、我らに残されたのは無価値な死の積み重ねのみよ」


古竜の声には悲哀ではなく、自分たちの種がもはや魔王には勝てないという、冷徹なまでの現実認識があった。


彼は悠真を見下ろし、裂けた唇を歪めて「取引」を告げる。


「人の子よ。其方の持つその力……。それが、矮小なる魔王の喉元を穿つ唯一の牙か」


「……俺たちに、何をさせたいんだ?」


「助けなど求めぬ。我ら竜族は、敗北を抱いて滅びるのみ。だが……ただで死ぬつもりもない」


古竜の黄金の瞳が、一際強く輝いた。


「其方に問う。――我ら竜の『死』すらも、其方のかてとする覚悟はあるか?」


「死を、糧に……?」


「左様。散っていった同胞の無念、流された血の魔力……。それら全てを其方の力とし、あの魔王に叩きつける一撃に変えろと言っているのだ」


それは英雄譚のような美しい託しではない。互いの矜持を賭けた、呪いにも似た過酷な取引だった。


「バルザークの『常闇の剣』は、強固なルールであるがゆえに、拒絶しているものがある。……其方の持つ、その歪な『変化』の光だ」


古竜の言葉とともに、悠真の脳裏にかの洞窟で見た壁画がフラッシュバックする。幾何学模様の「先」を、この古竜は見据えているようだった。


その時だった。


古竜の黄金の瞳が、不意にリィナへ向けられた。


「……そうか」


老竜は小さく目を細める。


「なるほど。まだ眠っているが……確かに、あの『血』が残っている」


悠真が眉をひそめる。


「何だ?」


「……いや」


古竜は静かに首を振った。


「その時が来れば分かる。其方もいずれ知ることになろう」


それだけ言うと、再び悠真へ視線を戻した。


「覚悟を決めよ、うつわの持ち主よ。門は開いてやる。だが、その先で其方が手にするのは、我ら竜の怨嗟えんさをも背負う、重き一撃となるであろう……」


古竜がボロボロの翼をわずかに震わせると、剥がれ落ちた鱗が粒子となり、星屑のような幻光となって空間へ溶け込んでいった。


直後、色彩が消失する。

雪原の白も、仲間の声も、吹き荒れる風の音さえもが、耳鳴りのような高周波音とともに背後へ遠のいていく。


「……我らは、世界を守るべく造られた最強の装置であった」


古竜の、底冷えするような声が脳内に直接響く。


かつて魔王と勇者が死闘を繰り広げたあの洞窟。そこは、世界が魔王というバグを消去するために「竜」という防衛システムを産み落とし、勇者という個体にその全権を託した場所だった。


「だが、勇者は敗れた。……いや、独りですべてを完結させようと、『完成』の器を選んでしまったのだ」


古竜の瞳が、悠真の内側にある《進化》の源流を暴くように見つめる。


「竜は、誰の手も借りぬ。誰にも背負わせぬ。孤独こそが最強の証。ゆえに、我らは敗れた。魔王の抱く『最強の剣』は、孤高なる個を飲み込む無の深淵なれば」


その言葉と同時に、世界の輪郭が極限まで鮮明になり、時間が凍りついたように静止した。


隣で剣を振るう一真が散らした火花も、リィナが何かを叫ぼうとした表情も、すべてがガラス細工のように固定されている。動いているのは、悠真一人だけだ。


(……何だ、これは?)


静寂。

心臓の鼓動だけが、異常なほど大きく耳元で鳴り響く。


世界という逃げ場のない質量が、悠真という「個人」の肩に、理不尽な重さでのしかかってくる。


一歩、踏み出そうとした。だが、足が固められたように動かない。掌の中の『黒い結晶』が、骨まで凍りつかせるような冷気で指先を焼く。


(違う……。俺は……)


かつて、孤独にすべてを背負おうとして、心が壊れかけたあの時の恐怖が蘇る。


仲間を信じると決めたはずなのに、この絶対的な静寂の中で、彼らは悠真を助けることも、名を呼ぶこともできない。


「……一人は、もう嫌なんだ」


絞り出すような呟きが、白く染まった世界に溶けていく。だがその瞬間、悠真の《複能》が熱く脈動した。


(……いや。竜は「独り」で完結させたからこそ、敗れたんだ。俺の力は……むしろ、独りでは届かない領域……)


あの洞窟で、かつての勇者が辿り着けなかった領域。それは孤独な神への昇華ではない。不完全なまま、他者の想いや可能性を幾重にも重ね、運命という枠組みを内側から食い破る力。


「其方は、あの洞窟の壁画が描かれた地で、何を見た?」


古竜の問いが、悠真の震えを止めた。


あそこは、進化が世界に触れた場所。そして今、悠真だけがその先へと手を伸ばす権利を握っている。


「……俺は、独りじゃ完成できない。だからこそ、あいつを越えられる」


悠真が顔を上げた瞬間、モノクロの世界がガラスのように砕け散った。


凄まじい熱量とともに時間が流れ出し、仲間の怒号と風の音が鼓膜を叩く。古竜の黄金の瞳が、満足げに細められた。


「往け、器の持ち主よ。我らが成し得なかった『その先』を……その歪な進化で、証明してみせよ」


古竜の咆哮が、大気を、空間を、そして眼前の漆黒の障壁を、真っ向から撃ち抜いた。


自らの命を燃やし尽くすような、最後の咆哮だった。


悠真は拳を握りしめ、仲間たちの姿を確かめた。リィナが、セレスが、一真が、健吾が、美咲が――それぞれの武器を握り、確かにそこにいる。


「……行くぞ!」


障壁に穿たれた巨大な裂け目が、ゆっくりと彼らを迎え入れようとしていた。

ありがとうございました。


まだ“底”です。ここから上がります。


次回『城門突破、リシュヴァの絶望の檻』


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