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逃げても逃げても義兄がいる。──それが、愛だった。  作者: 月雅


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第9話「繋がる道と声」

わたしが繋いだものが、わたしの手を離れて動き始めていた。


温泉街ティエールを拠点にして、もう数週間が経つ。レヴィが紹介してくれた沿岸航路の船主ハインツとの交渉は順調に進み、ポルトスとティエール最寄りの港を結ぶ定期便に、干物と薬草商品を乗せる取り決めが成立した。


ナタリーの干物はポルトスから沿岸航路でティエール方面へ。トマスの入浴包みは逆の便でポルトスへ。宿場町の食堂には、陸路の荷馬車で干物が定期的に届く。食堂の主人は宿場町の運送業者と連携し、わたしが間に入らなくても注文と配送が回る仕組みが出来上がっていた。


港町の干物。温泉街の薬草商品。宿場町の食堂。沿岸航路の船便。それぞれの場所で、わたしが繋いだ人たちが自分の持ち場で動いている。


循環する流通ルート。


前世の物流会社で夢見たことが、この世界で形になっていた。


わたしは温泉街の旅籠の部屋で、各地から届く手紙を読みながら、全体の調整に徹していた。自分が前に出るのではなく、仕組みを作る。わたしがいなくても回る仕組みを。それがわたしの目標だった。


ナタリーからの手紙には、近頃の商売の手応えが綴られていた。


「あんたが繋いだ宿場町の食堂から、追加の注文が来たよ。それと、隣町の宿屋からも問い合わせがあった。『あの行商ネットワーク』って呼ばれ始めてるみたいだね」


あの行商ネットワーク。わたしの名前は出ていない。でも、わたしが作った仕組みが、一つの呼び名で認識され始めている。


ナタリーの手紙には、もう一つ気になることが書かれていた。


「ポルトスの商人仲間から聞いた話だけど、ブランシェ伯爵領が最近苦しいらしいよ。近隣の交易が活気づいてるのに、あそこだけ取り残されてるって。まあ、あたしには関係ないけどね」


ブランシェ伯爵領。わたしの実家。


婚約破棄の後、わたしの帰還を拒否した家。


わたしの行商網は、意図的にブランシェ伯爵領を経由していない。避けたわけではない。ただ、あの領地には協力者がいなかった。わたしを「恥」として追い出した家に、手を差し伸べてくれる人はいない。


結果として、周囲の交易路が活性化する中で、ブランシェ伯爵領だけが取り残されている。


因果応報、と前世の言葉が浮かんだ。わたしが望んだことではない。でも、そうなった。


問題は、その翌日に届いた。


宿場町の運送業者からの急ぎの手紙だった。


「宿場町の役人が、薬草の入浴包みの販売を差し止めると言っている。王都の薬師ギルドから『公認でない薬草商品は流通禁止』という通達が来たらしい」


薬師ギルド。ナタリーが警告していた横槍が、現実になった。


わたしは手紙を握りしめて考えた。


前世の知識が頭の中で回る。薬と雑貨の境界線。前世の日本にも似た規制があった。「薬効」を謳えば薬になり、規制の対象になる。だが「香り」や「入浴の楽しみ」として売れば、それは雑貨であり、薬師ギルドの管轄外だ。


トマスの入浴包みは、実際には薬草の効能がある。だが、商品としての名目を変えればいい。「温泉薬草の入浴包み」ではなく「温泉の香りを楽しむ入浴香り袋」として売る。


ただし、名目を変えるだけでは足りない。公式な裏付けが要る。


温泉街ティエールを管轄する領主。この小さな温泉街にも、領地を治める小領主がいる。その領主が「入浴香り袋」の流通を正式に認可すれば、薬師ギルドの管轄外であることの公的な根拠になる。


わたしはその日のうちに、温泉街の領主への面会を求めた。


領主の館は温泉街の高台にある小さな屋敷だった。行商人の身分で面会を求めるのは身分の差を考えれば無礼に近いが、わたしは丁寧に書状をしたため、面会の理由を明記した。


翌日、面会が許された。


温泉街の小領主は、五十がらみの穏やかな男性だった。わたしは深く頭を下げ、礼を尽くして口を開いた。


「行商人のアネットと申します。お時間をいただき、ありがとうございます」


「聞いているよ。温泉街で入浴の包みを配って回っている娘だろう。湯治客の評判がいいとか」


「はい。温泉街の薬草師トマスの技術で作った品です。ですが、王都の薬師ギルドから流通差し止めの通達が出ました」


領主の眉が上がった。


「この商品は薬ではありません。温泉の香りを楽しむための入浴の香り袋です。薬効を謳ってはおりません。薬師ギルドの管轄には当たらないと考えております」


わたしは入浴包みの試作品を一つ、布に包んで差し出した。


「しかし、それを公に認めていただくには、この温泉街を治める領主様のご追認が必要です」


領主は包みを受け取り、匂いを嗅いだ。それから、しばらく考え込んだ。


「……この品が流通すれば、温泉街にどんな利がある」


「外からの客が増えます。入浴香り袋を買った旅人が、本物の温泉に入りたいとティエールを訪れるようになります。既に、ポルトスとの沿岸航路で流通の道筋はできております」


領主は頷いた。


「確かに、最近この温泉街は活気づいている。商人の往来が増えた。それは、お前の仕事か」


「わたし一人の力ではありません。港町の商人、この街の薬草師、街道の運送業者、沿岸航路の船主。多くの方々の力です」


領主はもう一度、入浴包みの匂いを嗅いだ。


「よかろう。入浴香り袋として、この領地での流通を認める。書状を出そう」


わたしは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


薬師ギルドの横槍は、退けられた。


わたしの行商ネットワークが、「一個人の商売」から「地域間連携の経済基盤」へと格上げされた瞬間だった。


旅籠に戻ると、ナタリーからの二通目の手紙が届いていた。


「王都の社交界の噂話。王太子の婚約破棄の際の補償──婚資の返還やら慰謝の領地下賜やら──が未履行だって、貴族院で問題になってるらしいよ。あの王太子殿下、破棄するだけして後始末してなかったんだね。それと、王太子の傍にいる男爵家の娘、社交界で居場所がなくなってきてるとか。あんたを悪役令嬢呼ばわりしてた子だっけ」


手紙を読み終えて、わたしは窓の外を見た。


エドワード殿下の補償未履行が、貴族院で議題に上がっている。リリアーヌの立場も不安定になっている。


わたしが意図したことではない。わたしはただ、自分の足で歩いて、人と人を繋いだだけだ。でも、世界は動いている。わたしの手を離れたところで、因果が巡っている。


わたしが繋いだものが、わたしの手を離れても動いている。


自立の実感が、初めて「成功」として胸に落ちた。


ふと、レヴィ義兄さまの顔が浮かんだ。あの夜、石段の踊り場で「義務じゃない」と言った横顔。


報告、したいな。


この前もそう思った。そして今また、同じ気持ちが浮かんでいる。前よりも、少し強く。


その夜、レヴィがまだ温泉街にいることが分かった。


旅籠の帳場で宿の主人と話している姿を、わたしは今度は隠れずに見た。レヴィもわたしに気づいた。目が合った。


「なぜまだここに?」


わたしが問うと、レヴィは表情を変えた。穏やかさが消え、硬い目になった。


「王都から伝書鳩が来た。王太子が『やっぱり返せ』と言い出した」


わたしの表情が凍った。


返せ。


あの人が、わたしを。


レヴィは静かに続けた。


「正式な再婚約の申し立てを、貴族院に出すつもりらしい」


温泉街の夜は、いつもと変わらず穏やかだった。湯気が立ち上り、山風が吹き、虫の声がする。


でも、わたしの世界は今、大きく動こうとしていた。

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