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逃げても逃げても義兄がいる。──それが、愛だった。  作者: 月雅


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第8話「八番目の逃走路」

「逃走経路は十二通り想定していた。お前が選んだのは八番目だ」


旅籠の裏手、温泉街を見下ろす石段の踊り場で、レヴィはそう言った。


平民の旅装はもう脱いでいた。仕立ての良い外套の下に、公爵家嫡男にふさわしい服が覗いている。黒い髪を夜風が揺らし、山間の月明かりがその横顔を照らしていた。


あの夜──旅籠の帳場でレヴィの声を聞いて柱の影で固まったわたしは、結局その場では声をかけられなかった。翌朝、意を決して旅籠を出たところで、石段に腰かけたレヴィと鉢合わせた。待っていたのだろう。わたしが出てくるのを。


「十二通り」


わたしは石段の下に立ったまま、その言葉を繰り返した。


「王都から出る主要ルートは十二ある。全部に連絡員を配置した。お前が南門を選んだ時点で、ルートは三つに絞られた。ポルトス経由で温泉街に入る陸路が八番目だ」


淡々とした口調だった。自慢でも威圧でもない。事実を述べているだけ。それがかえって、この人の有能さを際立たせている。


怒りが込み上げた。と同時に、諦めに似た感情がそれを追いかけてきた。そしてその奥に、どこか安心している自分がいることにも気づいていた。


「連れ戻しに来たわけじゃない」


レヴィが石段から立ち上がった。わたしを見下ろす目は穏やかだった。


「なぜ」


声が震えないように、意識して問うた。


「なぜ、止めないんですか。後見人なら、わたしの移動を禁止する権限があるはずです」


レヴィは一瞬だけ黙った。山風が二人の間を吹き抜けた。


「お前が自分の足で歩けることを、俺は最初から知っていた」


その言葉に、わたしは息を呑んだ。


「ただ、目の届かない場所に行かれるのは困る」


「……それは後見人の義務ですか」


聞かなければよかった、と思った。聞いた瞬間に、答えが怖くなった。


レヴィが一瞬だけ黙った。


ほんの数秒の沈黙。だが、その間にこの人の目の奥で何かが揺れたのを、わたしは見た。


「義務じゃない」


短い一言だった。


義務じゃない。では、何だというのだろう。


その問いを口にするのが怖くて、わたしは話題を変えた。


「……入浴包みの話を、帳場でしていましたね」


「聞いてたのか」


「声が聞こえました」


レヴィの口元がわずかに緩んだ。苦笑に近い表情だった。


「いい商品だと思った。だが、温泉街の中だけで配っていても広がらない。流通をどうする」


話が実務に切り替わった瞬間、レヴィの目から先ほどの揺れが消え、鋭い光が戻った。公爵家嫡男の顔。各地の人脈と経済を把握している者の問いかけだった。


「ポルトスのナタリーに手紙を送りました。干物の流通ルートで薬草商品も運べないか打診しています。帰り荷の仕組みを使えば、運賃は──」


「港町と温泉街を直接つなぐなら、沿岸航路のほうが早い」


わたしの言葉を遮って、レヴィが言った。


「ポルトスからティエールの最寄りの港まで、沿岸航路で三日。陸路の半分だ。その航路を定期運航している船主がいる。ハインツという男で、俺とは旧知だ。紹介しよう」


わたしは目を見開いた。


沿岸航路。それは前世の知識にもあった発想だが、この世界の海路の具体的な情報は持っていなかった。レヴィはそれを持っている。


「……どうして、そこまで」


「俺はこの国の主要な交易路を全部把握している。公爵家の仕事だ」


さらりと言う。だがそれは、この国の物流を知り尽くしているという宣言に等しかった。


わたしの行商ネットワーク構想に、レヴィの人脈と知識が合流しようとしている。それは圧倒的に有利な申し出だった。受ければ、ネットワークは一気に広がる。


でも。


「借りは必ず返します」


わたしは背筋を伸ばして言った。


「レヴィ義兄さまの人脈を使わせていただくなら、それは取引です。施しではありません。わたしの行商網がもたらす利益の一部で、必ずお返しします」


レヴィがわたしの顔をじっと見た。


それから、小さく笑った。苦笑でもなく、余裕の笑みでもない。もっと柔らかい、どこか嬉しそうな笑み。


「……ああ、好きにしろ」


その一言で、何かが変わった。


石段の上と下に立っていた二人の距離が、少しだけ縮まった。保護者と被保護者ではなく。追う者と逃げる者でもなく。対等に近い、何か。


温泉街の夜は静かだった。


レヴィと別れた後、わたしは旅籠の部屋に戻った。窓の外に山の稜線が黒く浮かんでいる。


この人は、わたしの敵じゃない。


それは確信に変わっていた。港町で手紙を残してくれた時から、薄々感じていたこと。宿場町でマルクスが伝言を届けてくれた時にも。そして今夜、「義務じゃない」と言ったあの声を聞いて。


でも、この人の本心が分からない。


後見人の責任感ではない、と言った。では何がレヴィ義兄さまを動かしているのか。なぜ十五年も──幼い頃に数度会っただけのわたしを、ここまで追いかけるのか。


答えは出なかった。


ただ、今夜の対話で一つだけ変わったことがある。


レヴィ義兄さまの知識と人脈を、わたしの行商網に活かせる。港町と温泉街を沿岸航路で繋ぐ。干物と薬草商品を同じ流通に乗せる。その先に、もっと大きなネットワークが見える。


わたしの構想と、レヴィの情報。対等な取引として成り立たせる。施しは受けない。でも、有用な協力は拒まない。


それは「依存」ではなく「選択」だと、わたしは自分に言い聞かせた。


同じ頃、旅籠の別の部屋。


レヴィはマルクスと向き合っていた。


「若様、アネット様と話されたのですか」


マルクスの声は丁寧だったが、そこにかすかな苦言の色が混じっていた。


レヴィは窓辺に腰かけたまま、夜空を見上げていた。


「あいつは、対等な取引だと言った」


「左様ですか」


「借りは返すと。施しは受けないと」


マルクスは黙って主の言葉を聞いていた。


「……後見を解消すれば、あいつは法的に無防備になる。王太子の手が届く」


レヴィの声が低くなった。先ほどアネットの前で見せた穏やかさとは違う、硬い声だった。


「後見人という立場は、あいつを制度的に守る盾だ。だが同時に、あいつの自由を縛る檻でもある」


マルクスは口を挟まなかった。


「盾を維持したまま、檻を開ける方法を考える」


「……難しい両立かと存じます」


「ああ。だから考える」


レヴィは窓から視線を戻し、マルクスを見た。


「あいつが自分の足で立てるようになるまで、手は離さない。だが立てるようになったら──その意思を、俺の都合で縛りたくない」


マルクスは深く一礼した。


「かしこまりました。若様のご判断に従います」


レヴィは再び窓の外を見た。


温泉街の灯りが、山あいの闇にぽつぽつと浮かんでいる。その中のどこかに、彼女がいる。今夜、初めて面と向かって話した。逃げなかった。話題を切り替えはしたが、向き合ってくれた。


それだけで、十分だった。


翌日、ポルトスのナタリーから返信の手紙が届いた。


わたしは旅籠の部屋で封を切り、中の紙を広げた。ナタリーの力強い筆跡が、短く率直な言葉を綴っている。


「薬草商品、面白い。やりましょう。干物と一緒に運ぶ段取りは組める。ただし一つ問題が。王都の薬師ギルドがこの手の商品の流通に横槍を入れてくるかもしれない。王都で薬を名乗る商品は、ギルドの認可が要る。気をつけな」


薬師ギルド。


その名前に、わたしの背筋が伸びた。前世の記憶がすぐに反応する。薬と雑貨の境界線。規制の網。前世でも似たような問題があった。


そしてもう一つ。ナタリーの手紙の末尾に、小さく書き添えられた一文。


「港町の商人仲間から聞いた噂だけど、王都で、あんたの元婚約者の王太子があんたの行方を探り始めてるらしいよ」


手紙を握る指に、力がこもった。


王太子エドワードが、わたしを探している。


その事実を、わたしはまだ受け止めきれなかった。窓の外の温泉街は、今日も穏やかに湯気を立てている。

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