第7話「薬草と温泉と」
わたしは朝日が昇る前に宿を出て、山道を登り始めた。
トマスの薬草園に通い始めて、数日が経っていた。最初の日は草むしりだけだった。二日目も草むしり。三日目になって、トマスが「そっちの束を乾燥棚に移せ」とぼそりと言った。それが、草むしり以外の最初の仕事だった。
四日目には薬草の仕分けを任された。
「葉の色が濃いのと薄いのを分けろ。濃いのは煎じ薬、薄いのは塗り薬に使う」
トマスの説明は短い。だが的確だった。余計な言葉がない分、一つひとつが頭に入る。
わたしは黙々と手を動かしながら、トマスの作業を観察した。薬草の乾燥の仕方、束ね方、保存の温度管理。どれも丁寧で、長年の経験に裏打ちされている。
五日目。トマスがぽつりと、薬草の効能について語り始めた。
「この草はな、湯に入れると筋の痛みが和らぐ。温泉の成分と合わさると、効きが倍になる」
「温泉の成分と、薬草の成分が反応するんですか」
「反応なんぞ知らん。だが、そうなる。わしの爺さんの代からそうだった」
経験則だ。理論はない。だが、結果は確かにある。
前世の記憶が、静かに動き始めた。
入浴剤。ハーブティー。アロマテラピー。前世の日本では、薬草や香草を使った商品が無数にあった。温泉と薬草を組み合わせた入浴剤は、旅先の土産物として定番だった。
この世界には、その発想がまだない。
温泉街の薬草を、小さな布袋に詰めて湯に浮かべる。「温泉薬草の入浴包み」。旅人が買って帰り、自宅の湯桶に入れれば、温泉街の湯の効能を再現できる。
もう一つ。乾燥させた薬草を砕いて、煮出して飲む。「薬草茶の旅土産」。港町の干物と同じように、この土地にしかない特産品を外の世界に届ける。
ナタリーの干物は「食」だった。今度は「癒し」だ。繋ぐものが変わっても、やり方は同じ。産地の良いものを、それを必要とする人のところへ届ける。
「トマスさん」
わたしは手を止めて、老人に向き直った。
「この薬草を、もっと多くの人に届けたいんです」
トマスは仕分け棚の前でこちらを見た。眉間の皺が深くなる。
「商売の話か。興味はない」
「売りたいんじゃないんです。あなたの薬草で楽になる人が、もっといるはずです」
トマスの手が止まった。
「山を降りられない人、温泉街まで来られない人。体が痛くて、でも遠くの湯治場には行けない人。そういう人たちのところに、あなたの薬草を届けたい。入浴の包みにして、湯桶に入れるだけで効くような形にして」
老人は黙っていた。
わたしは続けた。
「前に、王都で薬師ギルドにいらしたと聞きました」
トマスの目が細くなった。市場の露店の女性から聞いた話だった。
「ギルドの腐敗に嫌気がさして、ここに来たと。良い薬が、本当に必要な人のところに届かないことに、腹を立てていたと」
「……誰から聞いた」
「町の人です。あなたのことを、みんな知っていますよ。変わり者だけど、薬の腕は確かだって」
トマスは長い間、何も言わなかった。乾燥棚に吊るされた薬草の束が、山風に揺れている。
「……試しに、十包みだけ作ってやる」
わたしは息を呑んだ。
「ただし」
トマスが指を一本立てた。
「配合はわしが決める。あんたが口を出すな。それと、中身の質はわしが保証する。変なものを混ぜたら、即座に取引はなしだ」
「もちろんです。配合はトマスさんにお任せします」
トマスは鼻を鳴らして作業台に向かった。棚から数種類の薬草を取り出し、手際よく刻み始める。その手つきは、草むしりの時とはまるで違う、職人の動きだった。
わたしは隣に立って、布袋の準備をした。市場で買った麻の端切れを袋状に縫い、紐で口を結べるようにする。前世の巾着袋と同じ要領だ。
トマスが刻んだ薬草を、わたしが袋に詰める。老人は配合の比率を微調整しながら、小さく独り言を言っていた。
「筋の痛みには、こいつを多めに。冷えには、こっちを足す」
十包み。温泉薬草の入浴包みの試作品が、作業台の上に並んだ。
麻袋の中から、薬草の清涼な匂いが漂う。温泉の硫黄の匂いとは違う、もっと穏やかな草の香り。湯に入れたら、きっといい匂いが広がるだろう。
「ありがとうございます、トマスさん」
「礼はいらん。売れなかったら、あんたの責任だ」
ぶっきらぼうだが、声の端にかすかな期待が混じっている。わたしには、それが聞き取れた。
安宿に戻ったわたしは、すぐにナタリーへの手紙を書いた。
港町ポルトスのナタリーに、温泉街の薬草商品のことを伝える手紙。干物の流通ルートで、薬草の入浴包みも一緒に運べないかという打診。ポルトスから宿場町への荷馬車に、干物と一緒に薬草商品を積む。宿場町から温泉街への便で、代わりに宿場町の穀物を運ぶ。ネットワークが「線」から「面」に広がる仕組みだ。
手紙を宿の主人に託し、温泉街から出る定期便に乗せてもらう。ナタリーに届くまでに数日かかるだろう。
それとは別に、試作品の手応えを確かめたかった。
翌日、わたしは試作品の入浴包みを持って、安宿の旅籠に泊まっている湯治客たちに配って回った。
「よかったら、お風呂に入れて試していただけませんか。温泉街の薬草で作った入浴包みです」
最初は怪訝な顔をされた。見慣れない商品だ。無理もない。だが、一人が試すと、口づてに広がった。
「これ、いい匂い。湯上がりの体がぽかぽかする」
「腰の痛みが和らいだ気がするよ」
「王都に持って帰りたいねえ」
手応えがあった。十包みは、その日のうちにすべて配り終えた。
トマスに報告しに行くと、老人は無言で頷いた。だが、作業台の上には既に次の薬草が準備されていた。もう十包み分。わたしが頼む前に、用意していた。
「人と人を繋ぐ」ことで、新しい価値が生まれている。
前世の物流会社で、わたしがやっていたことと同じだ。産地と消費地を結ぶ。作る人と使う人を繋げる。その間に立つのが、わたしの仕事。
ナタリーの干物。トマスの薬草。宿場町の食堂。港町と温泉街と、その間の街道。点が線になり、線が面になろうとしている。
夕暮れの温泉街を歩きながら、ふとレヴィ義兄さまのことを考えている自分に気づいた。
浴場で噂を聞いてから、あの「湯治客の青年」を探してはいなかった。探せば見つかるかもしれない。でも、わたしからは探さなかった。
それなのに、この成果を真っ先に伝えたいと思う相手が、あの人だった。
報告、したいな。
その気持ちに気づいて、わたしは少し驚いた。逃げている相手に、商売の成果を報告したい。矛盾している。でも、嘘ではなかった。
その夜。
ナタリーからの返事が届くには早すぎる時間だったが、旅籠の帳場を通りかかった時に、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「あの入浴包み、王都でも売れるんじゃないか」
低く、穏やかで、よく通る声。
わたしは廊下の柱の影で足を止めた。
帳場で宿の主人と話しているのは、湯治客の青年だった。背が高く、黒い髪。その横顔は、もう見間違えようがなかった。
レヴィ義兄さまだった。
変装を──いや、平民の旅装をまとっているが、あの声は隠しようがない。宿の主人と世間話のふりをしながら、わたしの入浴包みの話をしている。
「王都でも売れる」と、この人は言った。
わたしの商品を。わたしが作ったものを。
柱の影で、わたしは動けなかった。
逃げ出すべきか。声をかけるべきか。どちらもできないまま、心臓だけが強く鳴っていた。




