第6話「湯けむりの邂逅」
母はよく、山の湯の話をした。
幼い頃、寝台の縁に腰かけた母が、わたしの髪を梳きながら語ってくれた。山あいの小さな湯治場のこと。湯気の向こうに見える峰々のこと。薬草の匂いが混じった温かい風のこと。
母──エレーヌは、フェルゼン公爵家の傍系の生まれだった。先代公爵の妹。山間の領地で幼少期を過ごし、その頃に温泉の湯に親しんだのだという。
「いつか一緒に行きましょうね、アネット」
その約束は果たされなかった。母はわたしが幼いうちに亡くなり、ブランシェ伯爵家には後妻が来て、母の思い出は家の中から少しずつ消えていった。
だから、温泉街ティエールの名前を荷馬車の御者から聞いた時、胸の奥が疼いた。母が語っていた山の湯。もしかしたら、母が幼い日に浸かったのと同じ湯が、そこにあるのかもしれない。
宿場町から内陸を北東へ、馬車で数日。山道を登り、峠を越え、谷間に降りたところに温泉街ティエールはあった。
小さな町だった。
山の斜面に沿って石造りの建物が並び、あちこちから白い湯気が立ち上っている。硫黄の匂いが混じった空気。街道の喧騒とはまるで違う、ゆったりとした時間が流れていた。旅人や体を痛めた職人たちが、のんびりと通りを歩いている。
ここにレヴィ義兄さまの手は届かないはず。前世のゲームにも登場しなかった場所。王都からも港町からも遠い、辺境の湯治場。
そう信じたかった。
安宿に荷物を下ろし、身分を隠したまま町を歩き始めた。行商人として、まずは土地の特産品を調べる。それがわたしのやり方だ。
温泉街の市は、港町の市場とはまるで趣が違った。
規模は小さい。だが、ここにしかないものがある。
山の薬草。温泉水を使った化粧水。地元の羊毛で織った厚手の布地。どれも品質は確かだが、この小さな町の中だけで消費されている。外に出ていない。
特にわたしの目を引いたのは、薬草だった。
乾燥させた薬草の束が、市の片隅で無造作に売られている。匂いを嗅いでみると、前世の記憶が反応した。これは入浴剤に使える。ハーブティーにもなる。王都や港町の人間が知れば、欲しがるはずだ。
だが、ここでは誰もその価値に気づいていない。
「この薬草、どなたが作っているんですか」
市の露店の女性に聞いてみると、少し困った顔をされた。
「ああ、山の上の薬草園のじいさんだよ。トマスっていうんだけどね。変わり者でねえ。町の人間ともあんまり付き合わないんだ」
「お訪ねしても大丈夫でしょうか」
「行くのは勝手だけど、追い返されても知らないよ」
翌朝、教えられた道を登って薬草園を訪ねた。
山の中腹に、石垣で囲まれた小さな園があった。色とりどりの薬草が整然と植えられ、乾燥棚には束ねた草が吊るされている。手入れの行き届いた、美しい園だった。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか」
返事はなかった。
園の奥から、一人の老人が現れた。白髪を無造作に束ね、土のついた手を腰布で拭いている。深い皺の刻まれた顔。鋭い目が、わたしを射抜くように見た。
「何の用だ」
ぶっきらぼうな一言だった。
「あの、市場であなたの薬草を見て、お話を聞かせていただきたくて」
「用がないなら帰れ。忙しい」
老人はそれだけ言って、わたしに背を向けた。園の奥へ戻り、黙々と薬草の手入れを始める。
門前払いだった。
予想はしていた。市の女性が言った通り、変わり者の薬草師。人嫌いで、よそ者には特に厳しい。
でも、わたしはこの園を見て確信していた。この人の薬草は、本物だ。植え方、間隔、乾燥の仕方。どれも丁寧で、知識と経験に裏打ちされている。
諦めて帰ろうとした時、ふと園の一角が目に入った。
石垣沿いの区画だけ、雑草が伸び放題になっている。他の区画が完璧に手入れされているのに、そこだけが荒れていた。老人一人では、手が回らないのだろう。
わたしは翌日、再び薬草園を訪ねた。
今度は声をかけなかった。園の入り口で一礼だけして、荒れた区画にしゃがみ込み、黙って雑草を抜き始めた。
前世で実家の畑を手伝った記憶がある。草むしりのやり方は体が覚えていた。根を残さないように、土ごとそっと引き抜く。
しばらくすると、背後に気配があった。
振り返ると、老人──トマスが腕を組んでこちらを見ていた。
「……何してる」
「草むしりです」
「見りゃ分かる。なぜだ」
「この区画が気になったので。他がきれいなのに、ここだけ荒れているのが、もったいなくて」
トマスは無言でわたしの手元を見ていた。抜いた雑草の山と、少しだけ地面が見え始めた区画。
長い沈黙の後、老人は鼻を鳴らした。
「……まあ、草むしりだけなら勝手にしろ」
それだけ言って、自分の作業に戻っていった。
追い返されなかった。
わたしは黙々と雑草を抜き続けた。薬草園の土は温泉の成分を含んでいるのか、独特の温かみがあった。母が話してくれた「山の湯の匂い」が、土の中から立ち上っているようだった。
日が傾くまで草むしりをして、わたしは園を後にした。トマスは最後まで何も言わなかったが、追い出しもしなかった。
それだけで十分だった。
ナタリーとは違う。あの人とは初対面で商売の話ができた。トマスとは、時間をかけて信頼を築く必要がある。でも、その手応えは確かにあった。
安宿に戻ると、日が暮れていた。
温泉街には共同浴場がある。宿泊客なら誰でも使える、石造りの大きな湯船だ。旅の疲れを流したくて、手拭いを持って浴場に向かった。
湯に浸かると、体の芯から力が抜けた。
港町の潮風とも、街道の埃とも違う。温泉の湯は、何かを溶かすように体を包む。母が愛した山の湯。その温もりに、わたしは目を閉じた。
ここにいたい、と思った。
ポルトスでもそう思わなかった。宿場町でも思わなかった。でもこの温泉街には、不思議な安らぎがある。母の記憶と繋がっているからだろうか。あるいは、この穏やかな空気そのものが、わたしが求めていたものだからか。
「あら、あなた、最近来た行商人さん?」
隣で湯に浸かっていた中年の女性が、気さくに声をかけてきた。湯治客らしい、のんびりした口調だ。
「はい、数日前に」
「そう。小さい町だから、新しい顔はすぐ分かるのよ」
女性はにこにこと笑って、それからふと思い出したように付け加えた。
「そういえば、最近来た湯治客の青年が、やたらとあなたのことを気にしていたわよ」
湯の中で、わたしの体が固まった。
「青年、ですか」
「ええ。背が高くて、黒い髪の。品の良さそうな人でねえ。今朝、浴場の帰りにあなたが薬草園のほうへ歩いていくのを見て、じっと見送っていたわ」
背が高くて、黒い髪。品の良さそうな青年。
湯治客のふりをした、その人物の顔が、わたしの脳裏に浮かんだ。
レヴィ義兄さま。
ゲームの外に逃げれば追えない、などという期待は、やはり甘かった。
湯気の向こうに、山の稜線がぼんやりと見えていた。母が語っていた景色と同じだろうか。その穏やかな眺めの中に、わたしを追い続ける人がいる。
怖い、とは、もう思わなかった。
代わりに浮かんだのは、ため息に似た感情だった。
この人は、一体どこまでついてくるのだろう。




