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逃げても逃げても義兄がいる。──それが、愛だった。  作者: 月雅


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第5話「追跡者の影」

この人は、どこまで見ているのだろう。


翌朝、港町ポルトスの宿場で目を覚ましたわたしの耳に、市場の喧騒に混じって役人たちの怒声が届いた。窓から港を見下ろすと、東側の倉庫街に人だかりができている。


宿の主人に聞けば、昨夜、東三番倉庫で密輸品の摘発があったらしい。海賊と繋がっていた商人が数名、領主の役人に捕まったという。


東三番倉庫。


昨夜あの手紙がなければ、わたしは港の東側を散歩していたかもしれない。夜の港町は危険だと知りつつも、市場の下見をしたい気持ちはあった。あの一行が、それを止めた。


レヴィ義兄さまの警告は、正確だった。


あの人はこの港町の裏事情まで把握している。公爵家の情報網は、わたしが想像していたよりもずっと深く、広い。


怖い、と思う気持ちは変わらない。


でも、一つだけ分かったことがある。あの手紙は「捕まえに来た」のではなく「危険を教えに来た」のだ。連れ戻すつもりなら、手紙ではなく人を寄越す。レヴィ義兄さまには、それだけの力がある。


なのに、そうしなかった。


考えても分からない。だから今は、目の前のことに集中する。


逃げる前に、始めた商売を形にする。ナタリーとの約束を果たす。それが先だ。


ナタリーの店を訪ねたのは、その日の昼前だった。


「あんた、早いね」


ナタリーは干物の仕分けをしながら、顎でわたしを招いた。


「昨日の話、考えてくれましたか」


「考えるも何も、あたしはもう干物を選んであるよ。ほら」


木箱が一つ、店の奥に用意されていた。蓋を開けると、ナタリーが選んだ上等の干物が丁寧に塩紙に包まれて並んでいる。


「小口だって言っただろう。これだけだ。売れ残ったらあんたの負担だよ」


「分かっています」


わたしは木箱を受け取った。両手で抱えるとずしりと重い。これがわたしの最初の商品だ。


港町から内陸の宿場町まで、馬車で一日ほど。王都への街道上にある、あの最初の宿場町だ。わたしが王都を出た日に「部屋を用意してあります」と言われた、あの宿場町。


あの町の食堂は、旅人と商人で賑わっていた。街道沿いの中継地点として、食事の需要は高い。干物は保存がきき、焼けば酒の肴になる。食堂の主人に試食してもらえば、手応えは得られるはずだ。


「ナタリーさん、一つお願いがあります」


「なんだい」


「わたしがこの干物を宿場町で売った後、しばらくこの町を離れることになるかもしれません。その間も取引が続くように、宿場町の運送業者を紹介して、仲介の仕組みを作っておきたいんです」


ナタリーが手を止めて、わたしの顔を見た。


「逃げるのかい」


鋭い。


「いえ、逃げるのではなくて。取引を、わたし一人に依存させたくないんです。わたしがいなくても回る仕組みにしておかないと、何かあった時にナタリーさんが困る」


嘘は言っていない。ただ、「何かあった時」の中身が、普通の商人とは少し違うだけだ。


ナタリーはしばらくわたしを見つめていたが、やがて鼻を鳴らして作業に戻った。


「好きにしな。あんたが筋を通す人間だってことは、分かったよ」


宿場町に着いたのは、翌日の夕方だった。


ポルトスから内陸へ向かう荷馬車に同乗させてもらい、干物の木箱を抱えて街道を北上した。見覚えのある宿場町の風景が、夕日の中に浮かび上がる。


まっすぐ、食堂に向かった。


街道沿いの食堂は、夕刻の時間帯で旅人たちが席を埋めている。厨房から漂う煮込み料理の匂い。わたしは食堂の主人に声をかけた。


「すみません。港町ポルトスの干物を持ってきたのですが、少し味を見ていただけませんか」


食堂の主人は太った中年の男で、忙しそうに鍋をかき混ぜていたが、「干物」という言葉に反応した。


「ポルトスの干物? こんな宿場町まで持ってくる奴は珍しいな」


「試食だけで構いません。お口に合わなければ、それまでです」


木箱から一枚取り出し、差し出した。主人はそれを手に取り、鼻先に近づけて匂いを嗅ぎ、身の厚さを指で確かめた。


「……焼いてみるか」


厨房の火で干物が炙られる。脂がじゅうと音を立て、香ばしい匂いが食堂中に広がった。客の何人かが振り返る。


主人が一口かじり、目を見開いた。


「うまいな、これ」


「ポルトスで一番の干物屋から直接仕入れています。帰り荷の仕組みを使って運賃を抑えていますので、お値段もご相談できます」


主人は干物を咀嚼しながら、値段を聞いた。わたしが提示した額は、王都の市場よりかなり安い。帰り荷の運賃圧縮が効いている。


「この値段なら、うちの客に出せる。週に一箱、いけるか」


「いけます」


心の中で拳を握った。


継続注文だ。一度きりの買い切りではなく、毎週一箱。ポルトスのナタリーから宿場町の食堂へ、定期的に干物が流れる仕組みの始まり。


食堂の主人と握手を交わし、配送の段取りを詰めた。宿場町には荷馬車の運送業者がいる。ポルトスとの間を定期的に往復している業者を食堂の主人に紹介してもらい、干物の運搬を任せる取り決めを作った。


これで、わたしがいなくても、ナタリーの干物は宿場町に届く。


港町ポルトスと宿場町。最初の一本の線が、繋がった。


食堂を出た時には、もう日が落ちていた。


宿場町の通りを歩いていると、不意に声をかけられた。


「お嬢様」


聞き覚えのある、丁寧で簡潔な声。


振り返ると、通りの暗がりに一人の男が立っていた。端正な顔立ちに、きっちりと整えられた服。フェルゼン公爵家の従者、マルクス。


わたしは足を止めた。


心臓が跳ねたが、逃げなかった。この人が追い返しに来たのなら、とっくに食堂の中で声をかけている。わざわざ外で待っていたのは、わたしの商売を邪魔しないためだ。


マルクスは一礼してから、淡々と口を開いた。


「若様からの伝言です。『良い商売だ。だが、護衛もつけずに夜の宿場を歩くな』とのことです」


良い商売だ、とレヴィ義兄さまは言った。


わたしの商売を、認めている。


同時に、夜道を一人で歩くなと叱っている。


管理されている。それは間違いない。レヴィ義兄さまの目は、ここにも届いている。マルクスがいるということは、レヴィ義兄さま自身もそう遠くない場所にいる可能性がある。


でも。


商売を否定されなかった。


その事実が、怒りよりも先に胸に落ちた。


「……伝言、確かに承りました。レヴィ義兄さまに、お伝えください。わたしは自分の始めた商売を、最後まで自分でやり遂げます」


マルクスはわずかに目を細めた。笑ったのかもしれない。暗くてよく見えなかった。


「お伝えいたします。では、お気をつけて」


それだけ言って、マルクスは通りの暗がりに消えた。追ってこない。引き止めもしない。


わたしは宿場町の通りに一人残された。


頭上に星が出ていた。


レヴィ義兄さまは、止めない。追いかけるのに、捕まえない。監視するのに、商売は認める。


この人は、何がしたいのだろう。


その問いは、港町で手紙を受け取った時から変わっていない。でも、問いの重みが変わった。あの時は恐怖が先だった。今は、困惑の奥に別の感情がある。それが何かは、まだ分からない。


宿に戻り、鞄を下ろす。


次の行き先を考える。レヴィ義兄さまの追跡を振り切るには、予想されにくい場所に行く必要がある。


辺境の温泉街ティエール。


その名前が、ふと浮かんだ。前世のゲーム知識を探ってみるが、温泉街ティエールは『星降る王宮のセレナーデ』に登場しなかった場所だ。ゲームの舞台にない場所。


ゲームの外に逃げれば、レヴィ義兄さまも追えないのではないか。


その期待を胸に、わたしは温泉街への馬車の便を調べ始めた。ポルトスからティエールまでは沿岸航路で三日、陸路なら六日。宿場町からなら、さらに内陸を北東へ進む街道がある。


明日の朝、発とう。


ナタリーとの取引は仕組みにした。宿場町の食堂との継続注文も決まった。わたしがいなくても、最初の一本の線は切れない。


あとは、次の線を繋ぐだけだ。


窓の外に、宿場町の夜が静かに広がっていた。星明かりの下、街道がどこまでも続いている。


あの道の先に、まだ見ぬ温泉街がある。


そこで、次の商売を始める。

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