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逃げても逃げても義兄がいる。──それが、愛だった。  作者: 月雅


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第4話「港町の女商人」

わたしはやれる、とまだ信じきれていなかった。


王都を出て五日。街道を南へ進み続け、ようやく港町ポルトスに辿り着いた。荷馬車を降りた瞬間、潮の匂いが鼻を突いた。前世でも嗅いだことのある匂い。海の町の匂いだ。


追手を警戒しながら歩く癖が、もうすっかり身についてしまった。宿場町で「部屋を用意してあります」と言われたあの夜から、わたしは背後の気配に敏感になっている。レヴィ義兄さまの影が、この町にも伸びているかもしれない。


でも、立ち止まっている暇はなかった。


港町の市場は、王都のそれとはまるで別物だった。


石畳の広場に所狭しと並ぶ露店。魚、貝、海藻、干物、塩蔵品。漁師たちが朝の漁から戻ったばかりらしく、木箱に詰まった魚がまだ跳ねている。怒鳴り声と笑い声と、魚を叩く音。王都の市場の何倍もの活気が、潮風に乗って渦巻いていた。


わたしの目は、干物の露店に吸い寄せられた。


王都の市場で見た干物と同じ種類のものが、ここでは信じられないほど安い。三分の一、いや、四分の一に近い。品質は王都で見たものと同等か、むしろ上だった。


やはり、思った通りだ。


産地と消費地の間に、巨大な価格差がある。その差を埋めるのが、前世のわたしの仕事だった。


市場の端に、一軒の干物屋があった。


他の露店が木箱を地面に並べているだけなのに対し、その店だけは屋根付きの小さな小屋を構えている。看板はないが、軒先に吊るされた干物の並べ方が整然としていた。品物を大切にしている人の店だ、と直感した。


店の奥から、一人の女性が出てきた。


日に焼けた肌。潮風で乾いた短い髪。腕まくりした袖から覗く手は、魚を捌く仕事で鍛えられたものだった。年齢はわたしより十以上は上だろう。きびきびとした身のこなしで、木箱の干物を並べ直している。


「すみません」


わたしは店の前に立ち、声をかけた。


女性がこちらを見た。値踏みするような視線。よそ者を品定めする、商人の目だ。


「なんだい、お嬢さん。干物なら好きなのを選びな」


港町訛りのきびきびした口調だった。


「いえ、買いに来たのではなくて。少し、お話を聞かせていただけませんか」


「話? あたしは商売人だよ。話を聞かせるだけじゃ飯は食えないね」


そう言いながらも、女性は手を止めなかった。干物を一枚一枚、日の当たる場所に並べ替えている。その手つきを見て、確信した。この人は、自分の商品に誇りを持っている。


「ナタリー、お客さんかい?」


隣の露店の漁師が声をかけた。


「さあね。見たところ行商人みたいだけど」


ナタリー。この人がナタリーだ。


わたしは一歩踏み出した。


「わたしはアネットと言います。行商の仮登録を取ったばかりで、この町は初めてです。あなたの干物の品質が素晴らしいと思って、お声がけしました」


ナタリーの手が止まった。


「品質が分かるのかい、あんた」


「王都の市場で同じ種類の干物を見ました。でも、こちらのほうが身の締まりがいい。塩の加減も、乾燥の具合も、王都のものとは段違いです」


ナタリーがわたしの顔をじっと見た。品定めの目が、少しだけ変わった。


「……で、何が聞きたいんだい」


「この干物を、内陸の街で売ってみませんか」


ナタリーが腕を組んだ。眉をひそめ、首を傾げる。


「内陸に売る? 運賃で赤字になるよ。ポルトスから内陸までどれだけかかると思ってるんだい。荷馬車を仕立てて、関所を通って、宿を取って。売値の半分が経費で消えるね」


「帰り荷を積めば、運賃は半分になります」


ナタリーの目が、わずかに見開かれた。


わたしは続けた。言葉が、前世の仕事の記憶に乗って滑らかに出てくる。


「行きはポルトスの干物を内陸へ運ぶ。帰りは内陸の穀物や木材を積んでポルトスに戻る。往復で荷を積めば、片道あたりの運賃は半分以下に抑えられます。今、内陸から港町への荷馬車は空荷で戻っているものが多いんです。その空荷の帰り便を使えば、運賃はさらに下がる」


ナタリーは腕を組んだまま、黙ってわたしの話を聞いていた。


「干物の品質はこちらが上。でも王都や内陸の街では、運賃が上乗せされて贅沢品の値段になっている。帰り荷で運賃を下げれば、内陸でも手が届く値段で売れる。買う人が増えれば、ナタリーさんの売上も上がる」


「……あんた、どこでそんなこと覚えたんだい?」


ナタリーの声から、警戒の色が薄れていた。代わりに、純粋な興味が滲んでいる。


「叔母の店で」


嘘ではない。前世の自分を叔母と呼ぶなら、だが。


ナタリーは干物を一枚手に取り、日にかざした。透き通るような琥珀色。手間と技術の結晶だ。


「あたしの干物は、この港町で一番だよ。それは自分で分かってる。でもね、販路がないんだ。夫が生きてた頃は、夫の船で沿岸の町に卸してた。夫が死んでからは、この店で売るだけ。組合の連中は助けちゃくれない」


その言葉に、わたしは前世の自分を重ねた。


一人で仕事を回すしかない状況。周囲の助けがない孤立。でも、自分の手で作ったものへの誇りだけは捨てない。


「わたしが仲介します。ナタリーさんの干物を、内陸の街へ繋ぎます。対等な取引です。施しではありません」


ナタリーがわたしの目を見た。長い沈黙だった。


港の風が、干物の列をかすかに揺らした。


「……試しに、やってみるかい」


ナタリーが手を差し出した。


「小口だよ。最初は小口だけ。あんたが本当にやれるか、あたしの目で確かめさせてもらう」


わたしはその手を握った。


魚を捌いてきた手は、硬くて温かかった。


「ありがとうございます」


「礼はいいよ。結果で見せな」


ナタリーが初めて、笑った。港町の陽射しのような、からりとした笑顔だった。


やれる。


わたしの胸の中で、その言葉が初めて確信に変わった。誰かに与えられた自信ではない。自分の知識と、自分の言葉と、自分の足で掴んだ手応えだ。


前世の物流会社で学んだこと。人と人を繋げば、新しい価値が生まれる。この世界でも、同じだった。


港の倉庫でナタリーと委託の取り決めを交わした後、わたしは宿に戻った。


日が暮れかけた宿の部屋。鞄を下ろし、外套を脱いで、ようやく一息つく。


今日、わたしは自分の力で商売の第一歩を踏み出した。


窓を開けて、潮風を吸い込んだ。港の灯りがぽつぽつと灯り始めている。漁船の影が波に揺れている。


ナタリーの笑顔を思い出す。あの人もまた、一人で戦ってきた人だ。夫を亡くし、組合の助けもなく、それでも自分の腕一本で店を守ってきた。


わたしたちは似ている。だからこそ、対等な仲間になれると思った。


そんなことを考えながら窓辺に目をやった時、それに気づいた。


窓枠の上に、一通の手紙が置かれていた。


封蝋で封じられている。その紋章に、見覚えがあった。


フェルゼン公爵家の紋章。


指先が震えた。


封を切り、中の紙を広げた。短い一行だけが、硬質な筆跡で記されていた。


「港の東三番倉庫には近づくな。今夜、海賊の荷が動く」


差出人の名はなかった。


だが、この筆跡を忘れるはずがない。公爵家の別邸で、後見の届出書類に署名していたあの手。


レヴィ義兄さま。


この人は、もうここにいる。


手紙を握りしめたまま、わたしは窓の外の港を見つめた。東三番倉庫がどこにあるかは分からない。だが、今夜そこに近づかなければ安全だということだけは、はっきりと分かった。


追いかけてくる。でも、捕まえに来ない。


危険だけを排除して、わたしの行動は止めない。


この人は一体、何なのだろう。


答えは出ないまま、潮風が手紙の端を揺らしていた。

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