第3話「王都脱出」
南門の向こうに、朝焼けの街道が伸びていた。
わたしは商人たちの荷馬車の列に紛れて、王都の南門に立っていた。身につけているのは市場で買った平民の外套と、使い込まれた革の肩掛け鞄。公爵家の別邸で用意された上等な衣服は、すべて部屋に置いてきた。
手の中には、行商ギルドの仮登録証がある。
数日前、南区のギルド事務所で手続きを済ませた。身元引受人の欄には、市場通いの中で顔見知りになった布地商の名前がある。推薦状の発行は驚くほど円滑だった。ギルドの受付は仮登録証をあっさりと発行してくれて、わたしは拍子抜けしたほどだ。
今思えば、あの手際の良さには理由があったのかもしれない。
でも、その可能性については考えないことにした。考え始めたら、足が止まる。
鞄の中には、仮登録証のほかに、市場で仕入れた王都名産の刺繍糸が数束。行商人としての商品見本だ。それと、別邸での暮らしの中で少しずつ貯めた小銭。公爵家から与えられた金には一切手をつけていない。あれは借りだ。いつか必ず返す。
南門は、朝の時間帯が最も混み合う。市場の仕入れに向かう商人、近郊の農村から野菜を運ぶ農民、日雇いの職人たち。関所の役人は一人ひとりを丁寧に検めている余裕がない。
これも市場通いの中で把握した情報だった。
侍女の交代は早朝の鐘が鳴る前後。夜勤の侍女が部屋を離れ、日勤の侍女がまだ来ない、ほんの短い空白の時間がある。護衛の兵士も同様に交代の間がある。
その隙を突いて、別邸を出た。
誰にも見つからなかった、とは思わない。あの別邸のどこかで誰かが気づいているかもしれない。それでも今は、前を向く。
「次の方、通行証を」
関所の役人に声をかけられ、わたしは仮登録証を差し出した。
役人はそれを受け取り、記載内容を確認する。名前、登録番号、所属ギルド。
「……登録が最近だな」
心臓が跳ねた。
役人の目がわたしの顔と登録証を交互に見る。若い女がひとりで、発行されたばかりの仮登録証を持って南門から出ようとしている。不審に思うのは当然だ。
「はい。叔母が港町で店を営んでおりまして、その手伝いに。店を継ぐことになったので、登録したばかりなんです」
声が震えないよう、意識して穏やかに話した。鞄から刺繍糸の束を取り出して見せる。
「王都の刺繍糸を、港町の仕立て屋に届ける仕事もいただいておりまして」
役人は刺繍糸を一瞥し、登録証をもう一度確認した。
数秒。
それが永遠のように長かった。
「……よし、通れ」
登録証が返された。わたしはそれを受け取り、軽く頭を下げて関所を通過した。
足が震えていた。それを悟られないように、前を歩く商人の荷馬車に歩調を合わせる。
南門をくぐった瞬間、風が変わった。
王都の石壁に囲まれた空気とは違う、土と草の匂いを含んだ風。街道の両脇には麦畑が広がり、遠くに丘陵の稜線が見える。
振り返ると、王都の城壁が朝日に照らされていた。
あの中に、フェルゼン公爵家の別邸がある。レヴィ義兄さまが用意してくれた、完璧な衣食住がある。
わたしは、それを置いてきた。
涙が出た。
同時に、笑みがこぼれた。
前世でも、こんな気持ちを味わったことがある。会社を辞めると決めた日。上司に退職届を出して、オフィスを出た時の。結局あの時は辞められなくて、退職届は引き出しに戻されたけれど。
今度は違う。わたしは自分の足で、門をくぐった。
自由と孤独は隣り合わせだ。それを知った上で、わたしはこの道を選んだ。
荷馬車の列に混じって、街道を南へ向かった。
港町ポルトスまで、馬車で五日。わたしは商人たちの荷馬車に便乗させてもらう形で進む。同乗の代わりに、荷物の番をしたり、休憩時に水を汲んだりする。行商の見習いとして不自然ではない振る舞いを心がけた。
街道は思っていたよりも整備されていた。主要街道だけあって、轍の跡が深く刻まれ、等間隔に道標が立っている。関所は王都の南門を出た後は、領地境ごとに設けられているが、商人の荷馬車に同乗している限り、個別の審査は王都ほど厳しくない。
日が傾き始めた頃、最初の宿場町が見えてきた。
街道沿いの小さな宿場町。旅人と商人が行き交う、よくある中継地だ。荷馬車から降りて、宿を探そうとした。
宿場町には旅籠が数軒ある。その中で最も手頃そうな構えの一軒に足を向けた時だった。
「ああ、お嬢さん」
旅籠の主人が、入り口でわたしの顔を見るなり声をかけてきた。恰幅の良い中年の男で、人の良さそうな笑顔を浮かべている。
「お嬢さんが来るって聞いてましたよ。部屋、用意してあります」
背筋が凍った。
わたしは王都を出てから、まだ半日も経っていない。誰にも行き先を告げていない。宿の予約などするはずもない。
「……どなたから、聞いたんですか」
声が掠れた。
「さあ、どなただったかなあ。うちによく鳩を飛ばしてくる方がいまして。そちらから、今日あたり若い女性の行商人がそちらに着くから、よくしてやってくれと」
鳩。
伝書鳩。
王都から主要都市への公式通達は最短三日。だが伝書鳩なら、最初の宿場町までは数時間で届く。荷馬車で一日かかる距離を、鳩は半日もかからず飛ぶ。
つまり。
わたしが南門を通過した時点で、誰かがそれを知り、伝書鳩でこの宿場町に連絡を入れた。わたしが着くよりも、ずっと早く。
レヴィ義兄さま。
あの人の情報網は、もうここまで届いているのか。
宿の主人は何も知らない顔で、にこにこと部屋の鍵を差し出している。
「いい部屋ですよ。窓から街道が見えましてね」
受け取るしかなかった。
部屋に入り、鞄を下ろし、窓辺に立つ。宿の主人の言う通り、窓からは街道が一望できた。夕暮れの光の中を、まだ数台の荷馬車がゆっくりと進んでいく。
この宿を用意したのは、レヴィ義兄さまだ。間違いない。
追手を差し向けたのではなく、宿を手配した。捕まえに来たのではなく、安全を確保した。
あの夜、扉の向こうで「分かっている」と言ったのは、こういうことだったのだ。
わたしの逃走を知っていて、止めなかった。その代わり、先回りして道を整えた。
怒りと安堵と困惑が、ぐちゃぐちゃに混じった。
止めてくれたほうが、まだ分かりやすかった。逃げるなと言ってくれたほうが、反発のしようがあった。こんな風に黙って守られたら、どうすればいいのか分からない。
でも。
わたしは宿代を自分の財布から出す。
用意された部屋に泊まることは受け入れる。でも、施しは受けない。自分の金で、自分の意思で、この宿に泊まる。
それがわたしにできる、精一杯の抵抗だった。
寝台に腰を下ろして、鞄から刺繍糸を取り出す。明日からまた、街道を南へ進む。港町ポルトスまで、あと四日。
レヴィ義兄さまの影がどこまでついてくるのかは分からない。
でも、わたしの足は止めない。
前世で学んだことがある。どんなに優れた物流網でも、最後の一歩を踏み出すのは人間の足だ。システムが人を運ぶのではない。人がシステムを動かすのだ。
わたしは自分の足で、港町まで行く。
そこで、最初の商売を始める。
この道の先に何があるかは分からない。ゲームの攻略本はとっくに尽きている。でも、わたしには前世の経験がある。産地と消費地を繋ぐ知恵がある。
窓の外で、最後の夕焼けが消えていく。
明日も、歩く。
その一歩が、わたしのものである限り。




