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逃げても逃げても義兄がいる。──それが、愛だった。  作者: 月雅


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第10話「隣に立つ人」

わたしは、どうしたいのだろう。


レヴィから王太子の再婚約申し立ての話を聞いた夜、わたしは旅籠の部屋で眠れなかった。窓の外に温泉街の灯りが揺れている。湯気が闇に白く立ち上り、山風に流されて消えていく。


エドワード殿下が、貴族院に正式な再婚約の申し立てを出した。


あの舞踏会で、大勢の前でわたしを切り捨てた人が、今になって「返せ」と言っている。


レヴィの情報によれば、エドワード殿下の動機は二つあるらしい。一つは、わたしの行商ネットワークの経済的価値に気づいたこと。港町と温泉街と宿場町を結ぶ流通網が、王都周辺の経済を活性化させている。その仕組みを作ったのがかつての婚約者だと知って、手元に置こうとしている。


もう一つは、リリアーヌとの関係が社交界で冷ややかに見られ始めたこと。婚約破棄の補償未履行が貴族院で問題になり、エドワード殿下の政治的信用は落ちている。リリアーヌの立場も連動して不安定になっている。


つまり、わたしを取り戻すことで政治的な立て直しを図ろうとしている。


わたし自身を見ているわけではない。わたしが作ったものの価値を見ているだけだ。


翌朝、レヴィが旅籠の帳場でわたしを待っていた。


「どうする?」


レヴィはただそう聞いた。


その一言に、わたしは目を見張った。


「どうする」と聞いている。「俺が守る」でも「俺に任せろ」でもない。選択を、わたしに委ねている。


あの石段の上で「義務じゃない」と言った人。わたしの逃走を追いかけながら、一度も足を止めさせなかった人。商売を認め、人脈を差し出し、それでも「借りは返す」と言うわたしの言葉を受け入れた人。


この人は、わたしの意思を最優先にしている。


「わたしは、わたしの意思で断ります」


声は震えなかった。


「レヴィ義兄さまに守っていただくのではなく、わたし自身の名前で、貴族院に返答書を出します」


レヴィは黙ってわたしの顔を見ていた。その目の奥に、何かが光った。


「わたしには今、自分の手で築いた仕事があります。王太子殿下の婚約者に戻ることは、わたしの意思ではありません。そう書きます」


「被後見人の正式な拒否には、後見人の署名がいる」


「はい。ですから、署名をお願いします」


レヴィが、ほんの一瞬、目を閉じた。


そして頷いた。


「分かった」


返答書は、その日のうちに作成された。


わたしが文面を書き、レヴィが後見人として署名した。被後見人の正式な拒否意思表明と、後見人の署名。この二つが揃えば、法的効力を持つ。


返答書は伝書鳩で王都のフェルゼン公爵家に送られ、公爵家の代理人が貴族院に提出する手筈が整えられた。


だが、それだけでは終わらなかった。


数日後、レヴィの情報網を通じて、エドワード殿下の反応が届いた。


「公爵家に唆されているのではないか」


エドワード殿下は、わたしの拒否がレヴィの操作によるものだと異議を申し立てたという。


旅籠の部屋で、レヴィがその報告を読み上げた時、わたしは拳を握りしめた。


わたしの意思を、あの人は信じない。わたしが自分で考え、自分で決めたことを、誰かに操られた結果だと思っている。


あの舞踏会の時からずっとそうだった。わたし自身を見ていなかった。


「レヴィ義兄さま」


「ああ」


「どうされるんですか」


レヴィは窓辺に立ったまま、山の稜線を見ていた。その横顔に、迷いの影が差した。


「……後見関係の解消を申請する」


わたしは息を呑んだ。


「その上で、お前の意思を再確認すればいい。後見人の影響下にない状態で、お前自身が拒否すれば、唆されたという異議は成り立たない」


「でも、後見を解消したら」


「ああ。お前を制度的に守る盾がなくなる」


レヴィの声は静かだった。だが、その静かさの中に、何かを手放す覚悟が滲んでいた。


「王太子がお前に直接手を伸ばせるようになる。法的には、な」


それは、レヴィがずっと恐れていたことのはずだ。あの夜、マルクスに「後見を解消すれば法的に無防備になる」と呟いていた声を、わたしは知らない。でも、この人がどれほどの覚悟でこの選択をしているかは、その横顔を見れば分かった。


「それでも、お前の意思が本物だと証明する方が重要だ」


レヴィがわたしを見た。


「お前が自分の足で立てることを、俺は最初から知っていた。なら、俺の都合でお前の意思を縛るべきじゃない」


わたしの胸の奥で、何かが大きく揺れた。


この人は、自分の盾を手放してまで、わたしの意思を守ろうとしている。


後見解消の申請と、アネット本人の拒否意思の再確認。


その二つが、伝書鳩で王都の公爵家へ送られた。


結果が届いたのは、さらに数日後のことだった。


貴族院は、「後見解消申請中であっても、被後見人本人の意思確認は有効」という先例に基づき、わたしの拒否意思を正式に受理した。エドワード殿下の再婚約申し立ては、棄却された。


婚約破棄の補償未履行と合わせて、二度目の政治的失態。エドワード殿下の貴族院での信用は、大きく損なわれた。


レヴィが淡々と伝えてくれた。


「王太子の寵姫も、社交界で居場所がないそうだ」


リリアーヌのことだ。エドワード殿下の政治的地位が下がれば、その寵愛だけが後ろ盾だった彼女の立場も崩れる。


そして、もう一つ。


わたしの行商ネットワークは、この一連の過程を通じて「公爵家の事業」ではなく「アネット個人の成果」として公式に認知された。後見人の影響下にない状態でわたし自身が意思を示したことが、逆にわたしの独立性を証明したのだ。


後見解消の手続きそのものは、まだ完了していない。申請から認可まで数ヶ月を要する。だが、手続きは確実に進んでいる。


温泉街の夕暮れ時。


わたしとレヴィは、旅籠の裏手の石段に並んで腰かけていた。あの夜、レヴィが「逃走経路は十二通り」と言ったのと同じ場所だ。


山の稜線が夕焼けに染まっている。湯気が金色に光りながら、ゆっくりと空に昇っていく。


「……ありがとうございます、義兄さま」


わたしは、自分でも驚くほど穏やかな声でそう言った。


レヴィが隣でわずかに首を傾けた。


「もう義兄じゃなくなる」


後見関係が解消されれば、「義兄」という社会的通称も消える。従兄妹という血縁は変わらないが、後見人でも義兄でもなくなる。


「じゃあ、何と呼べばいいんですか」


「それは、お前が決めろ」


レヴィの声は穏やかだった。そしてその穏やかさの中に、わたしはこれまで聞いたことのない種類の温もりを感じた。


名前で呼べばいい。それは分かっている。でも、まだ口に出せなかった。


呼びたい、と思っている。その気持ちは、もう否定できなかった。


夕暮れの光が二人の影を石段の上に長く伸ばしている。わたしたちは並んで座っていた。保護者と被保護者ではなく。追う者と逃げる者でもなく。ただ、隣に。


「レヴィ義兄さま」


「ん」


「後見の手続きが終わったら、わたし、もっとこのネットワークを大きくしたいです。温泉街だけじゃなく、もっと遠くの町とも繋げたい」


「ああ」


「その時は……また、力を貸していただけますか」


レヴィが少し間を置いてから答えた。


「後見の手続きが終わったら、改めて話したいことがある」


わたしの胸が跳ねた。


「今は、まだ言わない。後見人という立場で言えば、それはお前の意思を縛ることになる」


「……分かりました」


分かっていなかった。でも、分かりたいと思った。


この人が何を話したいのか。「義務じゃない」と言ったあの夜から、ずっと聞けなかったことの答えが、そこにあるのかもしれない。


夕焼けが消え、空に星が浮かび始めた。


温泉街の灯りが、山あいの闇にぽつぽつと灯っていく。わたしが繋いだ街と人の輪が、この灯りのようにあちこちで小さく灯っている。港町のナタリー、宿場町の食堂主人、山の薬草園のトマス、沿岸航路のハインツ。


そして、わたしの隣にいるこの人。


遠く王都では、エドワード殿下が次の手を考え始めているのかもしれない。薬師ギルドの問題も、根本的には解決していない。レヴィの前世の秘密も、わたしの前世の秘密も、まだ互いに知らないまま。


でも今は、この夕暮れの余韻の中にいたかった。


隣に立つ人の温もりを、もう少しだけ感じていたかった。


石段に座ったまま、わたしは小さく呟いた。


「……レヴィ」


義兄さま、はつけなかった。


ほんの一瞬。声に出してしまってから、慌てて口を押さえた。


レヴィは何も言わなかった。ただ、山の向こうに沈んだ夕日の残光を見つめながら、かすかに笑った。


その笑みを、わたしは横目で見ていた。


呼べた。


まだ一度だけ。まだ慌てて口を押さえるくらい。でも、呼べた。


温泉街の夜が、静かに二人を包んでいた。


(完)


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