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逃げても逃げても義兄がいる。──それが、愛だった。  作者: 月雅


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第1話「婚約破棄と義兄」

アネットは歩いていた。


舞踏会場の中央、数百の視線が集まる大理石の床を、背筋を伸ばしたまま一歩ずつ踏みしめていた。


王太子エドワード・ラングレーが、つい先ほど宣言した言葉がまだ広間の天井に反響しているようだった。


「──アネット・ブランシェとの婚約を、本日をもって破棄する」


知っていた。


この場面を、わたしは知っていた。


乙女ゲーム『星降る王宮のセレナーデ』。悪役令嬢アネット・ブランシェは、王太子ルートのクライマックスで婚約を破棄される。舞踏会の場で、大勢の貴族たちの前で、一方的に切り捨てられる。


ゲームではそこが最終イベントだった。バッドエンド。画面が暗転して、スタッフロールが流れて、おしまい。


だから動揺は少なかった。


少なかった、はずだった。


「エドワード殿下の仰せのままに」


わたしは深く頭を下げた。王族に対する最敬礼。膝を軽く折り、視線を床に落とす。前世の記憶がなければ、きっと泣き叫んでいただろう。でもわたしは知っている。ここで抵抗しても、何も変わらない。ゲームのシナリオは、そう書かれていた。


エドワード殿下の隣に、一人の少女が立っていた。


リリアーヌ・セレーヌ。男爵家の令嬢。ゲームで言えば「ヒロイン」にあたる人物。淡い金髪を揺らして、勝ち誇った微笑みを浮かべている。その笑みが「わたくしが選ばれたのですわ」と雄弁に語っていた。


広間のあちこちから、ひそひそと声が漏れる。


「やはり、ブランシェ伯爵家の娘では……」 「王太子殿下も、お気の毒に。押し付けられた婚約でしたものね」 「あの男爵家の娘、随分と嬉しそうですこと」


嘲笑と同情と、それから少しばかりの好奇心。わたしはそのすべてを背中に受けながら、ただ静かに立っていた。


ここまでは、ゲーム通りだ。


問題は、ここから先。


わたしの知る『星降る王宮のセレナーデ』には、婚約破棄の後の展開は存在しない。悪役令嬢アネットは退場して終わり。その後どこへ行くのか、どう生きるのか、ゲームは何も語らなかった。


つまり、ここから先は攻略本のないステージだ。


頭を上げた瞬間、視界の端に動きがあった。


広間の大扉が開き、一人の男が入ってきた。


長身。黒髪。仕立ての良い礼服を纏い、歩く姿には一片の迷いもない。広間の空気が、ざわりと変わった。


フェルゼン公爵家の嫡男。


レヴィ・フェルゼン。


わたしの記憶の中にいる従兄。幼い頃に数度顔を合わせた程度の、ほとんど接点のない人だった。背が高くて、目が鋭くて、子供心に「怖い人だ」と思ったことだけ覚えている。


そして──ゲームには、登場しなかった人物。


レヴィは広間の中央まで真っ直ぐに歩いてくると、エドワード殿下の前で足を止めた。王太子に対する一礼。形式としては完璧だが、その背筋には微塵も卑屈さがない。公爵家の嫡男としての、対等に近い礼。


「殿下。婚約破棄の件、承りました」


低く、よく通る声だった。


「フェルゼン公爵家嫡男レヴィ・フェルゼンとして、一つ申し上げます」


エドワード殿下が眉を寄せた。予定にない登場者。予定にない発言。殿下の傍らでリリアーヌが不安げにその袖を掴む。


レヴィは構わず続けた。


「アネット・ブランシェの後見は、フェルゼン公爵家が引き受けます。貴族院への届出は明日中に完了させます」


広間がどよめいた。


公爵家が、婚約破棄された伯爵家の娘の後見を? それはつまり、この娘を公爵家の庇護下に置くということか。王家に次ぐ権力を持つ、あのフェルゼン公爵家が。


わたし自身、理解が追いつかなかった。


なぜ。


幼少期に数度会った程度の従兄が、なぜここに。


「ブランシェ伯爵家に確認を取られましたか」


エドワード殿下の声には、明らかな不快が滲んでいた。


「取りました。伯爵家は──受け入れを辞退されました」


レヴィの声は平坦だった。しかしその一言で、広間の空気が凍った。


実家が、わたしの帰還を拒否した。


婚約破棄された娘は「恥」だから。後妻とその子の立場を守るためには、わたしがいないほうが都合がいいから。


知っていた。知っていたけれど、こうして公衆の面前で事実として告げられると、胸の奥が冷たくなった。


レヴィがわたしを見た。


初めて、真正面から目が合った。


黒い瞳。その奥にある感情を、わたしは読み取れなかった。怒りでも同情でもない。もっと深い、もっと古い何か。


「アネット」


敬称なしの、名前の呼び捨て。公爵家嫡男から伯爵家令嬢への呼びかけとしては砕けすぎている。けれど、従兄から従妹への呼びかけとしては──ぎりぎり、許される距離。


「来い」


たった一言だった。


わたしには選択肢がなかった。実家は拒否した。王宮にはもう居場所がない。路頭に迷うか、この手を取るか。


「……お世話になります」


声が少し震えた。


レヴィは何も言わず、踵を返した。わたしはその背中を追って歩き出す。広間の視線がわたしたちを追う。ひそひそ声がまた膨らむ。だがレヴィの背中は、それらをすべて遮るように広かった。


公爵家の馬車は、王宮の裏門に停められていた。


黒塗りの車体に、銀のフェルゼン家紋章。御者の隣に、一人の男が控えている。端正な顔立ちに、きっちりと整えられた従者服。レヴィの従者だろう。


「マルクス。別邸に」


「かしこまりました、若様」


マルクスと呼ばれた従者が、わたしに向かって丁寧に一礼した。


「お嬢様、足元にお気をつけください」


馬車のステップに足をかける。ドレスの裾を押さえながら座席に着くと、向かい側にレヴィが座った。


扉が閉まる。馬車が動き出す。


王宮の灯りが、窓の外で遠ざかっていく。


沈黙。


車輪の音だけが響く中、わたしは正面に座るこの人の横顔を見ていた。


レヴィ・フェルゼン。二十二歳。フェルゼン公爵家の嫡男。ゲームには存在しなかった人物。


わたしの知る物語に、この人はいなかった。


ということは、この人の行動を予測する手段が、わたしにはない。


怖い、と思った。


でも同時に、ゲームの外に出たということは、バッドエンドの先に道があるということでもある。


前世の記憶。日本で物流会社に勤めていた二十七年間の人生。地方の特産品を繋ぐ仕事をしていた。人と人を結べば、新しい価値が生まれることを知っている。


わたしには、それがある。


「レヴィ様」


「レヴィでいい」


「……レヴィ義兄さま」


わたしなりの妥協点だった。従兄に対する呼びかけとしては不自然ではないし、距離感の表明にもなる。レヴィは一瞬だけ目を細めたが、否定はしなかった。


「なぜ、後見を?」


「お前の母上──エレーヌ叔母上は、うちの親父の妹だ。血縁者が困っているなら、手を差し伸べるのは当然だろう」


筋は通っている。亡くなった母は、フェルゼン公爵家の傍系の出だった。先代公爵の妹。だからわたしとレヴィは従兄妹で、血縁による後見は法的にも認められる。


理屈は分かる。


でも、それだけで公爵家の嫡男が舞踏会に乗り込んでくるだろうか。


「それと」


レヴィが窓の外に目を向けたまま、淡々と言った。


「お前の再婚相手は、俺が審査する」


「は?」


「お前が泣かされるような縁談は、今後すべて俺が潰す」


「いえ、あの」


「というか、俺と再婚すれば全部解決するんだが」


馬車の中で、わたしは固まった。


待ってほしい。何を言っているのか。義兄との結婚は制度上どうなんですか。いや、従兄妹だから法的には可能かもしれないけれど、後見人と被後見人の間では婚姻できないはずで──って、なぜわたしはこんな冷静に法制度を検討しているのか。


レヴィの横顔には冗談の気配がなかった。


この人は、本気で言っている。


馬車の窓から、王都の夜景が流れていく。舞踏会場の喧騒はもう聞こえない。婚約破棄という嵐は過ぎ去った。でも、新しい嵐がすぐ隣に座っている。


わたしは静かに決意した。


この人から、逃げなければ。


自分の足で立つために。自分の人生を、自分で決めるために。


前世で学んだことがある。人と人を繋げば、価値が生まれる。わたしにはその知識がある。この世界でも、きっと使える。


ゲームの攻略本はもうない。


でも、わたしには前世の二十七年がある。


馬車が公爵家の別邸に向かって走る中、わたしはまだ見ぬ街道の先を想像していた。

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