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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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3/3

仇討ちは役所に届けた後で

父を斬った男の名は、沢井半九郎といった。


 慎之助がその名を聞かされたのは、葬式の翌朝である。まだ仏間には線香の匂いが重く残り、床の間の脇には父の刀が、拭われて半ばまで鞘に収まっていた。


「逃げたそうだ」


 叔父は低く言った。


「北へ向かったと」


 慎之助はうなずいた。胸の奥では、若い怒りが真っ赤に燃えていた。まっすぐで、扱いの下手な火だった。


 父の仇を討つ。


 そのために彼は刀を差し直し、すぐさま奉行所へ向かった。


 仇を追うために。

 もっと正確に言えば、仇を追うための手続きを始めるために。


 奉行所の一角、日差しの入りにくい板敷の廊下の先に、小さな机が置かれていた。机の向こうには、目の細い役人が座っている。年のころは五十前後、いかにも人の人生を紙に書き換えることに慣れた顔だった。


「ご用向きは」


「父の仇を討ちに参った」


「討った後ですか、討つ前ですか」


 慎之助は一瞬、問いの意味がわからなかった。


「……前だ」


「それは結構です」


 役人は淡々とうなずき、横の棚から紙を三枚抜いた。


「ではまず、願書を」


「願書?」


「はい。敵討願いです。被害者のお名前、続柄、死亡日時、場所、加害者の姓名、逃走の経路、目撃者の有無。あわせて、あなたが敵討を行う正当な立場にあることの証明も」


 慎之助はしばらく黙った。


 父は死んだ。男は逃げた。自分は追う。話はそれで済んでいるはずだった。


 だが目の前の机では、世の中が別の形で組み立てられている。


「今すぐ追えば間に合うかもしれん」


「ですから願書をお書きください」


「相手が逃げるぞ」


「逃げた相手を追うために願書が要るのです」


 役人は少しだけ顔を上げた。


「無届けの敵討ちは、敵討ちではありません」


 そこで言葉を切り、まるで雨の降り具合でも告げるように続けた。


「ただの人殺しです」


 慎之助は、三枚の白い紙を見下ろした。仇の顔より先に、その白さが目に焼きついた。


【制度メモ】

江戸時代の敵討ちは、私情だけで勝手に行ってよい復讐ではない。主君や役所の許しを得て、はじめて「公認の敵討ち」として扱われる。許しがないまま実行すれば、ただの私闘・殺人として扱われうる。

つまり最初に必要なのは怒りではなく、届出である。


 願書は、その日のうちには終わらなかった。


 父の名の書き方で一枚。幼名を添えるかどうかで一枚。叔父から証言の判をもらうのに半日。寺へ走って過去帳の写しを頼み、村役人に人別の確認を願い出て、ようやく土台が整ったと思ったら、今度は差し戻しが来た。


「目撃者二名のうち一名が、本文では“旅商人”となっておりますが、別紙では“油売り”となっております。どちらが正しいですか」


「そんなもの、どちらでもよかろう」


「よろしくありません。同一人物か別人かわからなくなります」


 役人は当然のように言い、次の箇所を指で押さえた。


「それからここ。“父、深手を負い即死”とありますが、同封の口書には“しばらくうめいていた”とあります」


「うめいてから死んだのだ」


「では即死ではございません」


 慎之助は役人の額を文鎮で叩き割りたくなったが、その衝動をなんとか飲み込んだ。


 修正。再提出。差し戻し。修正。再提出。差し戻し。


 季節が一つ変わるころには、慎之助の敵討ちは半ば書道になっていた。


 ようやく許しが下りたのは、冬の入りである。


 免状は立派だった。紙は厚く、印は赤く、文面はやたら仰々しい。慎之助はそれを受け取った瞬間、胸の底に沈んでいた火がひさしぶりに少し揺れるのを感じた。


「これで行ける」


「はい」


 役人は頷いた。


「ただし、他領へ入る際は控えを携帯してください。発見した場合も、まず現地の役所へ届け出るように」


「見つけたら斬る」


「斬る前に届け出るのです」


「見失ったらどうする」


「その事情を書いてご報告ください」


 慎之助は役人の額を木槌で叩き割りたくなったが、黙って免状を懐にしまった。


 父の仇を討つ許しが下りたのに、やることはなお増えている。世の中というのは、よくできた嫌味である。


【制度メモ】

公認の敵討ちが許されても、本人は自由に何をしてもよいわけではない。免状やその控えを持ち、必要に応じて所々で身分や事情を証明しながら追跡を続ける。

仇討ちは個人の激情であると同時に、藩や役所の管理下に置かれた特別任務でもあった。


 旅は長引いた。


 一年で済むと思っていた。二年でも長いほうだと思っていた。だが三年目には見込み違いを認めざるを得ず、五年目には見込みという言葉そのものが嫌いになった。


 半九郎は、いるようでいなかった。


 出羽にいたと聞けば越後へ抜け、越後へ行けば上州で見た者がいると言われた。左頬の古傷、右足を少し引く癖、刀を抜くとき左肩が先に上がること。そういう細かな特徴ばかりはやたら集まるのに、本人だけがいつも一足先にいない。


 慎之助は旅先から藩へ書状を送り続けた。


 今月は信州に入ったこと。宿場で聞いた風聞。費えた草鞋の数。見込み違いだったこと。来月はさらに北へ向かうこと。


 返事はいつも三行ほどである。


《承知》

《油断なく探索せよ》

《体をいたわれ》


 最後の一行だけ、妙に腹が立った。


 十年が過ぎた。


 二十六だった慎之助は三十六になった。髭の生え方が父に似てきた。怒りの燃え方は若いころほど派手ではなくなったが、そのかわり消えもしなかった。弱い火で長く煮る鍋のように、胸の底でずっと音を立てていた。


 そして十年目の秋、隣藩の城下で、ついに半九郎は見つかった。


 小さな鰻屋の前だった。


 昼下がり、暖簾の影から出てきた男は老けていた。髪は薄く、頬はこけ、右足をわずかに引いていた。だが左頬の傷だけは、十年前のままだった。


 慎之助の手が柄を握った。


 十年分の道のりが、その一握りに詰まっていた。


 だが彼は抜かなかった。


 踵を返し、現地の役所へ走ったのである。


 畳の部屋へ通され、息を切らしたまま免状を差し出すと、若い役人が二度見した。


「へぇ、敵討ち……ですか」


「そうだ。沢井半九郎を見つけた」


「では確認いたしますので、少々お待ちを」


「少々とは」


「書類の照合が済むまで」


 別の役人が印影を眺め、首をひねった。


「この家老印、少し前の型ですね」


「何だと」


「改刻があったのかもしれません。念のため照会します」


「その間に逃げたらどうする」


「それはいけませんので、先方には待機を命じます」


「……命じる?」


「はい。逃げないように」


 半九郎は役所の呼び出しを受け、実に素直に現れた。


 そして同じ町で待機することになった。


 慎之助は宿。半九郎も宿。


 夕方、井戸端で二人は鉢合わせた。十年分の殺意が、木桶の水音のそばで向かい合った。


「慎之助か、久しいな」


 半九郎が言った。


「……半九郎」


「長かったな」


「逃げ回ったからだ」


 半九郎は肩をすくめた。


「お上が三日待てと言う」


「らしいな」


「先に風邪でもひいたらしまらん」


「貴様を斬るまでは寝込まん」


 それだけ言って別れた。


 仇と仇討ちが同じ町内で、役所の許可を待ちながら三日を過ごす。


 十年前の慎之助なら、こんな茶番に耐えられなかっただろう。だが十年分の願書と差し戻しは、人間からかなりのものを削る。今の慎之助は、自分が滑稽であることも、この世がたいていそういうふうにできていることも、よく知っていた。


【制度メモ】

他領で仇を見つけても、その場で即座に斬るのが正解ではない。現地役所に届け出て、免状や記録を照合し、立会のもとで実行する。

激情の物語のはずなのに、途中で急に行政になる。この落差が、江戸の敵討ち制度のおかしさでもある。


 四日目の朝、空はよく晴れていた。


 町外れに竹製の柵が組まれ、見物人が遠巻きに息を潜めていた。立会の役人が二人、記録役が一人、検分役が一人。敵討ちにしては人数が多く、祭礼にしては顔が暗い。


 慎之助と半九郎は向かい合った。


 十年分の道が、その間にまっすぐ一本引かれていた。


「双方、名乗れ」


 役人が言った。


 慎之助が名乗り、半九郎が名乗った。


「始め」


 合図はあっけなかった。


 半九郎の踏み込みは速かった。老いた足でも、命が懸かれば前へ出る。慎之助は一歩引き、斜めに入った。刃が触れ、次の瞬間、半九郎の胴に深く走った。


 半九郎は膝を折った。


「……やっとか」


 そう言って、笑ったのか血を吐いたのかわからぬ顔で倒れた。


 慎之助は荒い息をついた。胸の奥で十年くすぶっていた火が、ようやく止まった気がした。


「では検分に入ります」


 役人が来たからである。


「討手、少々こちらへ。氏名の再確認を」


「今か」


「今です」


「今、討ったばかりだぞ」


「ですので、誰が誰をどう討ったかを、今のうちに」


 検分役が半九郎の脇にしゃがみ、傷の位置を確かめる。記録役が筆を走らせる。立会人は慎之助の刀の刃こぼれを見て、「こちらも記しておきましょう」と言った。


「藩へ戻られたら、控えが必要になりますので」


 慎之助はしばらく立ち尽くした。


 目の前には父の仇の死体がある。十年探した男である。ここで泣くとか、叫ぶとか、膝をつくとか、そういう場面である気もした。だが紙は待たない。役人はもっと待たない。


「こちらに花押を」


 慎之助は筆を取った。


 返り血のついた指では持ちにくかった。少し拭ってから、名を書いた。続いて時刻を書き、場所を書き、立会人の名を書き、武器の状態を書き、経過を簡潔に書いた。


 十年の復讐は、四半刻の決闘と三枚の報告書になった。


 慎之助は最後の紙を返し、空を見た。秋の空は高かった。高いが、それだけだった。


「これで、終わりか」


 思わず漏れた声に、役人が頷いた。


「ひとまずは」


「ひとまず?」


「藩への戻り届と、完了報告がございますので」


 慎之助は黙った。

 もうこの役人の額を木刀でたたき割りたいとも思わなかった。


 喉の奥から、乾いた笑いともため息ともつかぬものが出かかった、そのときだった。


「父上ーっ!」


 若い声が響いた。


 見物人の後ろから、一人の若侍が転がるように飛び出してきた。まだ二十そこそこだろう。顔立ちは半九郎にどこか似ていた。腰の刀に手をかけ、目を血走らせている。


「おのれっ! 父の仇!」


 若侍は慎之助へ飛び掛かった。

 だが、その腕を役人が二人がかりで押さえ込んだ。


「待ちなさい」


「離せ! 離せッ!」


「ならぬ」


 年嵩の役人が、少しも声を荒らげずに言った。


「敵討ちは、これにて済みです。さらに復讐を重ねることは御法度」


「だが、こやつが父を——」


「その件は、いまここで公に済んだ」


 役人は半九郎の死体と、脇の帳面を見比べるようにして続けた。


「そなたが今ここで斬りかかれば、ただの私闘です」


 若侍は息を荒くしたまま、言葉を失った。


 役人は記録役を振り返った。


「では、この者が乱心して討手に斬りかかろうとした件も、控えておいてください」


「はい」


 記録役は筆を走らせた。


 慎之助は天を仰いだ。


 秋の空は、どこまでも高かった。


 父の仇は討った。復讐も済んだ。

 だが人が人を憎む気持ちだけは、帳面のどこにもきれいには収まりきらぬらしい。


 それでも江戸という世は、

 収まらぬものを収まったことにするために、

 まず記録するのである。


【制度メモ】

敵討ちは、私的な復讐の連鎖を無限に認める制度ではない。むしろ「ここまでで終わり」と公に区切り、再復讐を禁じることで秩序の中へ閉じ込める仕組みだった。

つまり江戸は、復讐を肯定したのではない。管理したのである。

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