仇討ちは役所に届けた後で
父を斬った男の名は、沢井半九郎といった。
慎之助がその名を聞かされたのは、葬式の翌朝である。まだ仏間には線香の匂いが重く残り、床の間の脇には父の刀が、拭われて半ばまで鞘に収まっていた。
「逃げたそうだ」
叔父は低く言った。
「北へ向かったと」
慎之助はうなずいた。胸の奥では、若い怒りが真っ赤に燃えていた。まっすぐで、扱いの下手な火だった。
父の仇を討つ。
そのために彼は刀を差し直し、すぐさま奉行所へ向かった。
仇を追うために。
もっと正確に言えば、仇を追うための手続きを始めるために。
奉行所の一角、日差しの入りにくい板敷の廊下の先に、小さな机が置かれていた。机の向こうには、目の細い役人が座っている。年のころは五十前後、いかにも人の人生を紙に書き換えることに慣れた顔だった。
「ご用向きは」
「父の仇を討ちに参った」
「討った後ですか、討つ前ですか」
慎之助は一瞬、問いの意味がわからなかった。
「……前だ」
「それは結構です」
役人は淡々とうなずき、横の棚から紙を三枚抜いた。
「ではまず、願書を」
「願書?」
「はい。敵討願いです。被害者のお名前、続柄、死亡日時、場所、加害者の姓名、逃走の経路、目撃者の有無。あわせて、あなたが敵討を行う正当な立場にあることの証明も」
慎之助はしばらく黙った。
父は死んだ。男は逃げた。自分は追う。話はそれで済んでいるはずだった。
だが目の前の机では、世の中が別の形で組み立てられている。
「今すぐ追えば間に合うかもしれん」
「ですから願書をお書きください」
「相手が逃げるぞ」
「逃げた相手を追うために願書が要るのです」
役人は少しだけ顔を上げた。
「無届けの敵討ちは、敵討ちではありません」
そこで言葉を切り、まるで雨の降り具合でも告げるように続けた。
「ただの人殺しです」
慎之助は、三枚の白い紙を見下ろした。仇の顔より先に、その白さが目に焼きついた。
【制度メモ】
江戸時代の敵討ちは、私情だけで勝手に行ってよい復讐ではない。主君や役所の許しを得て、はじめて「公認の敵討ち」として扱われる。許しがないまま実行すれば、ただの私闘・殺人として扱われうる。
つまり最初に必要なのは怒りではなく、届出である。
願書は、その日のうちには終わらなかった。
父の名の書き方で一枚。幼名を添えるかどうかで一枚。叔父から証言の判をもらうのに半日。寺へ走って過去帳の写しを頼み、村役人に人別の確認を願い出て、ようやく土台が整ったと思ったら、今度は差し戻しが来た。
「目撃者二名のうち一名が、本文では“旅商人”となっておりますが、別紙では“油売り”となっております。どちらが正しいですか」
「そんなもの、どちらでもよかろう」
「よろしくありません。同一人物か別人かわからなくなります」
役人は当然のように言い、次の箇所を指で押さえた。
「それからここ。“父、深手を負い即死”とありますが、同封の口書には“しばらくうめいていた”とあります」
「うめいてから死んだのだ」
「では即死ではございません」
慎之助は役人の額を文鎮で叩き割りたくなったが、その衝動をなんとか飲み込んだ。
修正。再提出。差し戻し。修正。再提出。差し戻し。
季節が一つ変わるころには、慎之助の敵討ちは半ば書道になっていた。
ようやく許しが下りたのは、冬の入りである。
免状は立派だった。紙は厚く、印は赤く、文面はやたら仰々しい。慎之助はそれを受け取った瞬間、胸の底に沈んでいた火がひさしぶりに少し揺れるのを感じた。
「これで行ける」
「はい」
役人は頷いた。
「ただし、他領へ入る際は控えを携帯してください。発見した場合も、まず現地の役所へ届け出るように」
「見つけたら斬る」
「斬る前に届け出るのです」
「見失ったらどうする」
「その事情を書いてご報告ください」
慎之助は役人の額を木槌で叩き割りたくなったが、黙って免状を懐にしまった。
父の仇を討つ許しが下りたのに、やることはなお増えている。世の中というのは、よくできた嫌味である。
【制度メモ】
公認の敵討ちが許されても、本人は自由に何をしてもよいわけではない。免状やその控えを持ち、必要に応じて所々で身分や事情を証明しながら追跡を続ける。
仇討ちは個人の激情であると同時に、藩や役所の管理下に置かれた特別任務でもあった。
旅は長引いた。
一年で済むと思っていた。二年でも長いほうだと思っていた。だが三年目には見込み違いを認めざるを得ず、五年目には見込みという言葉そのものが嫌いになった。
半九郎は、いるようでいなかった。
出羽にいたと聞けば越後へ抜け、越後へ行けば上州で見た者がいると言われた。左頬の古傷、右足を少し引く癖、刀を抜くとき左肩が先に上がること。そういう細かな特徴ばかりはやたら集まるのに、本人だけがいつも一足先にいない。
慎之助は旅先から藩へ書状を送り続けた。
今月は信州に入ったこと。宿場で聞いた風聞。費えた草鞋の数。見込み違いだったこと。来月はさらに北へ向かうこと。
返事はいつも三行ほどである。
《承知》
《油断なく探索せよ》
《体をいたわれ》
最後の一行だけ、妙に腹が立った。
十年が過ぎた。
二十六だった慎之助は三十六になった。髭の生え方が父に似てきた。怒りの燃え方は若いころほど派手ではなくなったが、そのかわり消えもしなかった。弱い火で長く煮る鍋のように、胸の底でずっと音を立てていた。
そして十年目の秋、隣藩の城下で、ついに半九郎は見つかった。
小さな鰻屋の前だった。
昼下がり、暖簾の影から出てきた男は老けていた。髪は薄く、頬はこけ、右足をわずかに引いていた。だが左頬の傷だけは、十年前のままだった。
慎之助の手が柄を握った。
十年分の道のりが、その一握りに詰まっていた。
だが彼は抜かなかった。
踵を返し、現地の役所へ走ったのである。
畳の部屋へ通され、息を切らしたまま免状を差し出すと、若い役人が二度見した。
「へぇ、敵討ち……ですか」
「そうだ。沢井半九郎を見つけた」
「では確認いたしますので、少々お待ちを」
「少々とは」
「書類の照合が済むまで」
別の役人が印影を眺め、首をひねった。
「この家老印、少し前の型ですね」
「何だと」
「改刻があったのかもしれません。念のため照会します」
「その間に逃げたらどうする」
「それはいけませんので、先方には待機を命じます」
「……命じる?」
「はい。逃げないように」
半九郎は役所の呼び出しを受け、実に素直に現れた。
そして同じ町で待機することになった。
慎之助は宿。半九郎も宿。
夕方、井戸端で二人は鉢合わせた。十年分の殺意が、木桶の水音のそばで向かい合った。
「慎之助か、久しいな」
半九郎が言った。
「……半九郎」
「長かったな」
「逃げ回ったからだ」
半九郎は肩をすくめた。
「お上が三日待てと言う」
「らしいな」
「先に風邪でもひいたらしまらん」
「貴様を斬るまでは寝込まん」
それだけ言って別れた。
仇と仇討ちが同じ町内で、役所の許可を待ちながら三日を過ごす。
十年前の慎之助なら、こんな茶番に耐えられなかっただろう。だが十年分の願書と差し戻しは、人間からかなりのものを削る。今の慎之助は、自分が滑稽であることも、この世がたいていそういうふうにできていることも、よく知っていた。
【制度メモ】
他領で仇を見つけても、その場で即座に斬るのが正解ではない。現地役所に届け出て、免状や記録を照合し、立会のもとで実行する。
激情の物語のはずなのに、途中で急に行政になる。この落差が、江戸の敵討ち制度のおかしさでもある。
四日目の朝、空はよく晴れていた。
町外れに竹製の柵が組まれ、見物人が遠巻きに息を潜めていた。立会の役人が二人、記録役が一人、検分役が一人。敵討ちにしては人数が多く、祭礼にしては顔が暗い。
慎之助と半九郎は向かい合った。
十年分の道が、その間にまっすぐ一本引かれていた。
「双方、名乗れ」
役人が言った。
慎之助が名乗り、半九郎が名乗った。
「始め」
合図はあっけなかった。
半九郎の踏み込みは速かった。老いた足でも、命が懸かれば前へ出る。慎之助は一歩引き、斜めに入った。刃が触れ、次の瞬間、半九郎の胴に深く走った。
半九郎は膝を折った。
「……やっとか」
そう言って、笑ったのか血を吐いたのかわからぬ顔で倒れた。
慎之助は荒い息をついた。胸の奥で十年くすぶっていた火が、ようやく止まった気がした。
「では検分に入ります」
役人が来たからである。
「討手、少々こちらへ。氏名の再確認を」
「今か」
「今です」
「今、討ったばかりだぞ」
「ですので、誰が誰をどう討ったかを、今のうちに」
検分役が半九郎の脇にしゃがみ、傷の位置を確かめる。記録役が筆を走らせる。立会人は慎之助の刀の刃こぼれを見て、「こちらも記しておきましょう」と言った。
「藩へ戻られたら、控えが必要になりますので」
慎之助はしばらく立ち尽くした。
目の前には父の仇の死体がある。十年探した男である。ここで泣くとか、叫ぶとか、膝をつくとか、そういう場面である気もした。だが紙は待たない。役人はもっと待たない。
「こちらに花押を」
慎之助は筆を取った。
返り血のついた指では持ちにくかった。少し拭ってから、名を書いた。続いて時刻を書き、場所を書き、立会人の名を書き、武器の状態を書き、経過を簡潔に書いた。
十年の復讐は、四半刻の決闘と三枚の報告書になった。
慎之助は最後の紙を返し、空を見た。秋の空は高かった。高いが、それだけだった。
「これで、終わりか」
思わず漏れた声に、役人が頷いた。
「ひとまずは」
「ひとまず?」
「藩への戻り届と、完了報告がございますので」
慎之助は黙った。
もうこの役人の額を木刀でたたき割りたいとも思わなかった。
喉の奥から、乾いた笑いともため息ともつかぬものが出かかった、そのときだった。
「父上ーっ!」
若い声が響いた。
見物人の後ろから、一人の若侍が転がるように飛び出してきた。まだ二十そこそこだろう。顔立ちは半九郎にどこか似ていた。腰の刀に手をかけ、目を血走らせている。
「おのれっ! 父の仇!」
若侍は慎之助へ飛び掛かった。
だが、その腕を役人が二人がかりで押さえ込んだ。
「待ちなさい」
「離せ! 離せッ!」
「ならぬ」
年嵩の役人が、少しも声を荒らげずに言った。
「敵討ちは、これにて済みです。さらに復讐を重ねることは御法度」
「だが、こやつが父を——」
「その件は、いまここで公に済んだ」
役人は半九郎の死体と、脇の帳面を見比べるようにして続けた。
「そなたが今ここで斬りかかれば、ただの私闘です」
若侍は息を荒くしたまま、言葉を失った。
役人は記録役を振り返った。
「では、この者が乱心して討手に斬りかかろうとした件も、控えておいてください」
「はい」
記録役は筆を走らせた。
慎之助は天を仰いだ。
秋の空は、どこまでも高かった。
父の仇は討った。復讐も済んだ。
だが人が人を憎む気持ちだけは、帳面のどこにもきれいには収まりきらぬらしい。
それでも江戸という世は、
収まらぬものを収まったことにするために、
まず記録するのである。
【制度メモ】
敵討ちは、私的な復讐の連鎖を無限に認める制度ではない。むしろ「ここまでで終わり」と公に区切り、再復讐を禁じることで秩序の中へ閉じ込める仕組みだった。
つまり江戸は、復讐を肯定したのではない。管理したのである。




