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恐らく奇妙な物語 短編集  作者: 理寿人


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2/3

毎晩、知らない男が夢で警告してくる

最初の夢を見たのは、引っ越して四日目の夜だった。


 薄暗い廊下に、男が立っていた。


 古い病院みたいな、蛍光灯の白さだけが不気味に残る場所だった。壁の色も床の材質も曖昧で、ただ湿った冷気だけがやけにはっきりしている。私は裸足でそこに立っていて、少し先にいる男が、こちらへ何かを話しかけていた。


 口は動いているのに、言葉が聞き取れない。


 水の中から喋っているようでもあり、壊れたラジオが遠くで鳴っているようでもあった。男は三十代くらいに見えた。痩せていて、顔色が悪い。目だけが妙に真剣で、必死に何かを伝えようとしているのがわかる。


 私は近づこうとした。


 だが足が動かない。床に、皮膚の裏側から凍っていくような冷たさが広がり、膝から下が自分のものではないように重かった。


 男は何度も同じことを言っているらしかった。


 それでも一語も拾えないまま、目が覚めた。


 朝の六時三分だった。


 喉がからからで、寝汗でシャツが背中に貼りついていた。夢の内容は妙にはっきりしているのに、男の顔を思い返そうとすると、輪郭だけが煙みたいに崩れていく。


 気味が悪い、とは思ったが、その日は仕事があった。生活は夢を待ってくれない。コーヒーを淹れ、顔を洗い、駅へ向かった。


 最初の異変は、その日の夕方に起きた。


 会社帰り、駅前のコンビニで弁当を買った。レジの若い店員が、バーコードを通しながら私の顔を見て、妙な顔をした。


「……あの、お客さん」


「はい」


「さっきも来ませんでした?」


「いいえ」


 店員は困ったように首を傾げた。


「同じ服の人が、三十分くらい前に。弁当と水、まったく同じの買っていって」


 私は曖昧に笑って店を出た。偶然だろうと思った。引っ越したばかりの街で、知らない誰かと顔が似ているだけかもしれない。


 だが、部屋へ戻って冷蔵庫を開けた瞬間、背中が冷えた。


 中に、まったく同じ弁当と水が入っていた。


 買った覚えはない。


 レシートもない。


 私はしばらく冷蔵庫の前で立ち尽くした。考えられる説明はいくつかあった。寝ぼけて買った。前日に買って忘れていた。誰かが部屋に入った。どれも気持ちが悪いが、最後のものがいちばん嫌だった。


 玄関の鍵を確認した。閉まっている。チェーンも内側からかかっていた。


 その夜、私は部屋の明かりを全部つけたまま眠った。


 そしてまた、夢を見た。


 あの廊下だった。


 男は前より近くにいた。頬が少しこけて見えた。口の動きがはっきり見えるぶん、聞き取れなさが余計に苛立たしかった。私は「誰なんだ」と叫んだつもりだったが、自分の声すら出ない。男は強く首を振り、何度も何度も、同じ文を繰り返した。


 その途中、ぶつりと雑音が混ざった。


 男の顔が一瞬、私自身の顔に見えた。


 そこで目が覚めた。


 心臓がうるさいほど鳴っていた。枕元のスマートフォンには、午前三時十一分と表示されていた。その下に、通知が一件。


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 嫌な冗談みたいだった。


 震える指でアプリを開き、再生した。


 最初はザーッという擦れる音。そのあと、低い息遣い。数秒の沈黙。そして、男の声とも自分の声ともつかない何かが、途切れ途切れに言った。


『……きる……な……』


 それだけだった。


 私はその朝、管理会社へ電話した。鍵の交換履歴、防犯カメラ、前の住人の情報。答えられない、確認できない、個人情報なので、の一点張りだった。警察に相談するほど明確な被害もない。録音について説明しても、自分で無意識に録った可能性をやんわり示されるだけだった。


 その日から、妙なことが増えた。


 洗面所の鏡に水滴で文字が浮かぶ。まだか。


 スマホの写真フォルダに、寝ている自分を部屋の隅から撮った画像がある。暗い粒子だらけの画面の端に、知らない男の足先だけが写っている。


 母から電話が来て、開口一番、私の名前を言い間違える。それも一度や二度ではない。子どものころ亡くなった叔父の名で呼ばれたときは、さすがに笑えなかった。


「疲れてるんじゃない?」と母は言った。「声もなんか、前と少し違うし」


 違うのはそっちだ、と言い返しかけて、やめた。


 夜になるのが怖くなった。


 それでも眠らないわけにはいかない。眠れば夢が来る。夢のたびに男は少しずつ近づいてくる。こちらへ手を伸ばし、喉が裂けそうな勢いで何かを伝えようとする。私は聞き取れない。聞き取れないまま、現実側の異変だけが増えていく。


 三回目の夢のあと、私は会社を休んだ。


 男の正体を調べようと思った。あの顔。あの目。あの切迫。どこかに手がかりがあるはずだった。


 まずアパートの近所で聞き込みをした。古いクリーニング店の老婆が、私の住む部屋番号を聞いて嫌そうな顔をした。


「また?」


「また、とは」


「前にもいたのよ。あんたみたいに、目の下真っ黒にして、寝てない顔した男」


 心臓が小さく跳ねた。


「いつですか」


「何年も前。十年……いや、もっとかもね。急にいなくなったわ。夜逃げかと思ったけど、荷物がけっこう残ってたって」


「名前は?」


「さあ。忘れちゃった」


 老婆は本当に忘れているようだった。ただ、去り際にぽつりと言った。


「でもね、あんたと雰囲気が似てるわ。顔じゃなくて、追い込まれ方が」


 区立図書館へ行き、古い地方紙をあさった。事故、失踪、事件。最初は何も出なかったが、不動産関係の記事のすみで、小さな囲みを見つけた。


 市内マンションで単身男性が失踪。室内に争った形跡なし。


 住所が一致していた。


 記事は短く、名前は出ていなかった。ただ、年齢は三十二。会社員。家族が捜索願を出したが、半年後に打ち切られたとある。


 失踪したのは十三年前だった。


 その日から、私は夢の男を「前の住人」と呼ぶようになった。正体がわからないものに仮の名を与えると、少しだけ怖さが減る。野生動物に札をつけて飼いならした気になるみたいに、ばかげた安心が得られた。


 けれど、その安心は長くもたなかった。


 夜、帰宅して郵便受けを開けると、封筒が一通入っていた。差出人も切手もない。中には写真が一枚だけ。


 私の部屋の玄関だ。


 内側から撮られている。


 ドアの前に、私が立っている。スーツ姿で、鍵を差し込もうとしているところだった。つまり、外から帰ってきた私を、部屋の中から誰かが撮った写真だった。


 写真の裏に、ボールペンで一行だけ書いてあった。


 まだ間に合う


 その字は、私の字に似ていた。


 その夜は眠らないと決めた。コーヒーを飲み、明かりをつけ、テレビの音を流しっぱなしにした。午前一時、二時、三時。頭が重くなり、視界の端が鈍く滲む。それでも耐えた。


 四時前、玄関のほうで、かちゃりと小さな音がした。


 体が固まった。


 チェーンはかけてある。鍵も閉めてある。なのに、ドアノブがゆっくり下がった。誰かが外から開けようとしている。私は息を殺した。足音はない。ノブだけが、ためらうように一度、二度、下がる。


 そのあと、低い声がした。


 ドア一枚隔てた向こうで、男が何かを言っている。


 夢の中と同じ声だった。


 私は立ち上がれなかった。喉がひきつれて、警察に電話しようにも指が動かない。声はくぐもっていて、やはり聞き取れない。ただ、必死さだけが伝わる。泣きそうなほど切実な声で、男は何かを訴え続けた。


 数分後、ぴたりと止んだ。


 私は朝までソファで固まっていた。玄関を開けたのは日が昇ってからだった。廊下には誰もいない。床に、カセットテープだけが落ちていた。透明の安いケースに入った古いテープで、白いラベルに油性ペンで数字が書かれている。


 3


 部屋にラジカセはない。だが図書館の視聴覚室で再生できることを思い出し、開館と同時に向かった。


 テープには男の独白が入っていた。


 途切れ途切れで、雑音も多かったが、要点は拾えた。十三年前の失踪した住人の声だと、私は直感した。


『……夢に男が出る……最初は言葉がわからない……寝るたびに近づいてくる……起きている間も、物が増える、減る、記憶がずれる……みんな、俺の名前を覚えていられない……』


 私は息を止めて聞いた。


『たぶん入れ替わるんじゃない。ずれていくんだ。少しずつ、向こうとこっちが重なる。夢の男は、過去の誰かじゃない。たぶん——』


 そこでテープが大きく波打ち、音が歪んだ。続きは聞き取れなかった。


 最後の数十秒に、早口の声が重なっていた。何か重要なことを言っているのはわかる。だが、やはり水中の声みたいに崩れてしまう。


 私は視聴覚室でしばらく動けなかった。


 前の住人も同じ目に遭っていた。なら、あの男は彼なのか。だとしたら、私へ何を伝えようとしているのか。助けを求めているのか、警告しているのか、それとも——引きずり込もうとしているのか。


 帰り道、ふとショーウィンドウに映った自分を見て、足が止まった。


 一瞬だけ、ガラスの中の私は立ち止まっていなかった。


 通り過ぎる私を、ガラスの中の私が振り返ったのだ。


 夜にはもう限界だった。寝たくないのに、意識が落ちる。椅子に座ったまま、スマホを握ったまま、気づけば夢の廊下に立っている。


 男は、目の前にいた。


 ひどく疲れた顔だった。私も同じ顔をしているのだろうと思った。彼の目の下には濃い隈があり、唇は切れ、頬には小さな傷があった。片手をこちらへ伸ばしている。その手首には、私と同じ傷痕があった。高校のとき、自転車で転んでガラスに切った場所だ。


 そこで、ようやく理解が追いついた。


 知らない男ではなかった。


 あれは、私だった。


 いや、正確には、私になるものだった。


 背後で何かが開く気配がした。廊下の向こうに、私の部屋の玄関が見えた。現実の部屋だ。ドアが少しずつ開いていく。暗い室内の向こうに、もうひとつの廊下があり、そこに別の誰かが立っている。その顔は見えない。だが、次にここへ来る人間なのだと、なぜかはっきりわかった。


 男——私は、泣きそうな顔で首を振った。


 口がゆっくり動く。


 今まで何度も見てきたその動きが、初めて音になった。


 「起きるな。目を開けたら、今度はおまえがこっち側だ」

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