今日ひとり、”有害”な人間が死ぬ
最初の投稿は、午前三時十二分だった。
明日から、日本にとって最も有害な人物が毎日一人、自殺する。
国籍、肩書き、所在地は問わない。
これは予告ではなく、呪いである。
発信元は新規作成のSNSアカウントだった。アイコンは灰色の卵。名前は「有害管理局」。プロフィール欄は空白。
誰かの悪ふざけだと、ほとんどの人間が思った。
六時間後、東欧の小国で、対日制裁を主導していた与党政治家が、自宅の浴室で首を吊っているのが見つかった。
昼のニュースでは「偶然の一致」と片づけられた。
夜には国内のまとめ動画が「呪い、ガチか?」という文字で再生数を稼いだ。
三日目、中国系ファンドを率いていた実業家が香港のホテルから飛び降りた。
四日目、対日世論を煽る発言で知られた米国のコメンテーターが、自分の番組の控室で手首を切って死んだ。
世界がそのアカウントを知ったのは、五日目だった。
日本の外務省の記者会見で、外国人記者が笑いながらこう聞いたからだ。
「日本政府は“呪い外交”を新しく始めたんですか?」
会見場は一瞬だけ静かになり、その静けさは、そのまま世界中に配信された。
*
新聞記者の真壁梨沙は、最初から嫌な感じがしていた。
単なるオカルトではない。
誰かが死ぬたび、ネットの空気が一段ずつ腐っていく。その腐敗の速度が、事件そのものより怖かった。
編集部は沸いていた。
「特集を組め」「過去投稿を洗え」「日本に利益を与えた人物は安全なのか、逆もやれ」
デスクは興奮していたが、真壁は違った。いま起きているのは現象ではなく、選別だと思った。
「“有害”の基準は何ですか」
彼女がそう言うと、デスクは鼻で笑った。
「だから面白いんだろ。誰が決めてるのか分からない」
「分からないから、みんな勝手に決め始めます」
「もう決め始めてるよ」
その通りだった。
番組、配信、匿名掲示板、討論動画。
政治家、官僚、外国政府、反日活動家、投機筋、カルト、マスコミ、移民推進派、差別主義者、増税派、減税派、フェミニスト、保守言論人、芸能人。
日本にとって有害な人物は誰か。
誰もが、急に専門家になった。
その奇妙さは、真壁の胃を冷やした。
人々は正義よりも先に、処刑リストを欲しがっていた。
*
六日目に死んだのは、日本人だった。
元官僚で、海外企業との癒着が疑われていた男。疑惑は長年くすぶっていたが、立件には至っていない。
男は官舎の机に向かったまま死んでいた。遺書はなかった。モニターには、有害管理局の最新投稿が表示されていた。
六人目、終了。
その日から空気が変わった。
遠い外国で誰かが死ぬうちは、どこか映画のようだった。
だが国内の顔が死んだ瞬間、この呪いは“自分たちの道具”になった。
「売国奴が先に死んだ」
「やっぱり神は見てる」
「次は誰だ」
「政治を浄化してくれる」
「いや、これは国家転覆のテロだ」
「止めろ」
「止める必要はない、むしろ続けろ」
真壁は街頭で取材した。
老人は「戦争を回避してくれるなら何でもいい」と言った。
大学生は「民主主義より迅速な対応」と笑った。
主婦は「でも、誰が有害かなんて、立場で変わるでしょう?」と小声で言ったあと、周囲を見て口を閉じた。
小声が、この国から先に死んでいく。
真壁はそう思った。
*
警察庁のサイバー対策室にいる梶原は、三日徹夜でアカウントを追っていた。
サーバーは海外を転々とし、踏み台は何重にもされている。
投稿時刻は毎回きっちり三時十二分。
画像も動画もなく、文章だけ。
検出できたのは、奇妙な癖だけだった。句読点の打ち方が古い。漢字変換に偏りがある。まるで、何十年も前に書かれた文章を、そのまま写しているみたいだった。
部下が言った。
「人力じゃない可能性があります。自動投稿、あるいは…」
「あるいは、何だ」
「誰かが“結果”だけ見て、あとから投稿してる」
「死ぬ前に書いてるなら呪い、死んだ後に書いてるなら演出か」
「でも、全件、死因が不自然すぎるんです」
梶原は黙った。
不自然なのは死因だけではない。共通しているのは、死の直前、全員が数分間だけ“ひとり”になっていることだった。護衛も秘書も家族もカメラも、その瞬間だけ外れている。
世界が、その死のためにだけに、わざとらしく目を逸らす。
その夜、梶原の妻からメッセージが届いた。
あなたの名前、検索候補に出てるよ
気をつけて
彼は自分の名を検索し、ブラウザを閉じた。
候補にはこう出ていた。
梶原修一 日本にとって有害
*
九日目。
死んだのは、巨大動画プラットフォームで政治煽動を繰り返していた人気配信者だった。
保守も左派も両方を餌にし、怒りを収益化する怪物みたいな男だった。自宅配信中に突然言葉を止め、視聴者四十万人の前で、自分の首にコードを巻きつけた。
切り抜きは一時間で一千万再生を超えた。
コメント欄には、祈りと歓声が同じ密度で並んだ。
真壁はその画面を見て、吐き気を催した。
もう“日本にとって有害”は国家的な基準ではなかった。
それは、群衆が自分の嫌いなものに貼る便利な札になっていた。
翌日から、学校でいじめが始まった。
会社で密告が始まった。
家庭で「お前みたいなのが有害なんだ」と怒鳴る父親の動画が拡散した。
有害、という言葉だけが、どこでも一人歩きした。
*
真壁は、有害管理局の最初の投稿画像を拡大して見ていた。文字の縁に、かすかなノイズがある。スクリーンショットの再圧縮ではない。紙に印刷されたものを、もう一度撮っているような滲み方だった。
紙。
その瞬間、梶原から連絡が来た。
「古い寺の文書庫を当たってる。江戸後期の怪文書に、似た文言があった」
真壁は深夜の寺へ向かった。
山門の向こうは冷えていた。住職は九十近い老人で、二人をほとんど驚いた様子もなく迎え入れた。
文書庫から出てきたのは、虫食いだらけの和紙だった。
そこには、崩し字でこう記されていた。
国を蝕む者、日々一人、己が手にて己を断つ
ただしこの禍、国の敵を選ぶにあらず
国がもっとも憎む像を、日々一人、形にするのみ
真壁は読み上げたあと、背中が冷えた。
「“敵”じゃない。“国がもっとも憎む像”……?」
老僧はうなずいた。
「呪いは正義を判定せん。怨みの焦点を穿つ」
「じゃあ、いま死んでいるのは」
「この国が、その日いちばん“有害であってほしい”と願った者じゃろう」
願った。
その言葉が、真壁の喉に刺さった。
つまり選んでいるのは、アカウントの主ではない。
日本そのものだ。
いや、日本という曖昧な怪物に、毎日エサをやっている人間たちだ。
*
その事実を公表すべきか、真壁は迷った。
報じれば、止まるかもしれない。
だが逆に、「なら次は誰を憎むべきか」という投票がさらに加速する可能性もあった。
迷っているうちに、十二日目が来た。
死んだのは、ある地方都市の公立中学教師だった。
政治家でも活動家でもない。
ただ一枚、校内で盗撮された動画が拡散していた。生徒に向かって「国なんて言葉で人を殴るな」と叱る動画だった。
文脈は切られ、「反日教師」として燃やされた。
三日で住所も家族も晒された。
遺体は職員室で見つかった。
机の上には、提出しそびれた進路希望調査票が散っていた。
真壁は、その紙の一枚を見た。
「将来なりたいもの」の欄に、丸い字でこう書かれていた。
やさしい大人
それだけで、世界が少し壊れる音がした。
*
その夜、真壁は記事を出した。
寺の文書の内容も、呪いの仮説も、全部書いた。
これは敵を殺す力ではない。
国民の憎悪が、その日もっとも像を結んだ一人を死なせる構造ではないか。
だから次の死者を止める方法はただひとつ、「誰が有害か」を熱狂して語ることをやめることだ、と。
記事は公開から二十分で炎上した。
「証拠がない」
「呪いを擁護するな」
「呪いなんて馬鹿げている」
「感情論」
「つまり国民が悪いって言いたいのか」
「そうやって日本人のせいにするお前が有害」
真壁は画面を閉じた。
正論は、群衆の熱に投げ込まれると、たいてい燃料になる。
午前三時十二分が近づいていた。
梶原から電話が来た。声がひどく乾いていた。
「検索候補、もう見たか」
「何を」
「今夜の一位だ」
彼が言った名前を聞いて、真壁はしばらく意味を理解できなかった。
真壁梨沙
喉が鳴った。
笑うしかない冗談みたいだった。
だが画面を開くと、本当にそうなっていた。
売国記者。呪いを正当化した女。国民を責めた女。
短い文章が、数十万、数百万の単位で増殖していた。
世界は、理解したくない真実を語る者を、有害と呼ぶらしい。
*
三時十二分の少し前、真壁は部屋の鍵を全部開けた。
ひとりにならないためだった。
梶原と編集部の後輩が駆けつけ、彼女の両腕を掴んだ。
誰も目を逸らさなかった。
時計が三時十一分五十秒を過ぎた。
五十五秒。
五十八秒。
誰も息をしなかった。
三時十二分。
真壁は死ななかった。
だが、都内の小さなマンションで、一人の少年が窓から落ちて死んだ。
十七歳。
有害管理局のアカウントを最初に拡散した、高校生だった。
遺書はスマホのメモに残っていた。
ほんとは冗談だった
みんなが勝手に育てた
でも途中から、毎日三時十二分になると
ほんとうに“今日の一人”がわかる気がした
たぶん僕も、その怪物の一部だった
真壁はその文を読んだあと、しばらく窓を開けられなかった。
春先の風が入るだけで、人が落ちる音がしそうだった。
*
有害管理局の更新は、その日で止まった。
だが呪いが終わったと、誰も言えなかった。
なぜなら、人々はもう知ってしまったからだ。
誰かを“国にとって有害”と大勢で信じ込めば、世界は本当にそちらへ傾くのだと。
それが超常現象であれ、集団ヒステリーであれ、政治であれ、市場であれ、人生であれ。
真壁は数か月後、教師のいた中学校の前を通った。
花束はもう片づけられていた。
校門の脇に、色あせた紙が一枚だけ残っていた。
「ことばでころさない」
子どもの字だった。
彼女は立ち止まり、その紙を見た。
国という大きすぎる言葉より、その一文のほうがずっと正しかった。
それでも夜になれば、画面の向こうでまた誰かが誰かを有害と呼ぶ。
呪いはアカウントではなかった。
あれは、名づければ処分できると信じる人間の心に、もともと住んでいた。
だからたぶん、終わっていない。
ただ、以前より少しだけ分かりやすくなっただけだ。
怪物の顔が、鏡みたいだったというだけで。
真壁は駅へ向かって歩き出した。
背後で風が紙を揺らし、かすかな音がした。
泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。




