13
ここはどこだろう?
暗い……ただ暗い……
いや……当たり前か……目を瞑っているのだから。
俺はそれに気づくと、ゆっくりと目を開けた。
――苔。
初めに目に飛び込んできたのは、壁一面にびっしりと生えた苔だった。
部屋の中央に位置する天井に、点滅を繰り返すカバーのかかった白熱灯が見える。
だが部屋はそれほど明るくはない。
それもそのはず、この部屋には窓が一つもないのだ。
そして埋め尽くしているのは苔だけではない。
――根っこだ。
隅の方に、壁にめり込んだような木が生えており、そこから地面を突き破るように、根っこが見える。
そしてそれが、部屋の床や壁に張り付いているのだ。
さらに木の表面を大量の苔が覆い、この部屋は暗く深い緑に包まれていた。
――扉が見えた。
枠が苔に侵蝕され、継ぎ目が見えないが、あれは扉だろう。
ドアノブも見える。
俺は、何故か動かしにくい体に力を入れ、苔で満たされた床を這った。
ゆっくりと……。
そして扉の前に辿りつき、ノブに手をかけ、固まった扉をゆっくりと、力一杯引いた。
おそらく長い間、閉ざされたままだったのだろう。
すると徐々にだが、扉が開く。
そして……
――徐々に、光が入ってきた。
目を突き刺すほどの、白い光だ。
俺は扉を開け、部屋の外へと出た。
「なんだ?……これは……」
表現のしようがない。
そこには見渡す限りの、
――白い世界が広がっていたのだ。
俺は目で捉えられる限りの『白い世界』を眺めた。
遠くを見つめ……そして天井を……いや天上はなかった。
だが、見渡す限りの『白』ではあったが、壁はあるのだ。
床があり壁がある。だが天上がない。
まるで夢の中にいるように目も霞む。
這いつくばったまま、後ろを振り返ってみると、そこには部屋からはみ出る『苔』が見えた。
幻想的だが、この苔はちょっとな……。
俺は這いずりながら、ゆっくりと前へ進んだ。
正面を向くと、どこまで続いているのかも分からない、『白い世界』しかなかった。
文字通り、そこには果てがないのだ。
すると急に、体が起き始めた。
立ち上がるつもりもなかったが、体が勝手にそうしたのだ。
起き上がると、2本の足を使い、ゆっくりと進み始める。
すると、何もない『白の世界』ではあったが、右手に開いたままの白い扉が見えてきた。
先ほどの部屋もそうだったが、扉自体には異世界の要素はないように思えた。
むしろ大学の各クラスに備え付けてあるような白い扉だ。
そして俺はその部屋を覗き込んだ。
――点滅するブルーライト。
そこにあったのは酷く汚れたバスルームだった。
小さな部屋だ。
人一人が入れる程度のバスタブと、壁に備え付けられた腰の幅程度の小さな洗面器、そして前には鏡が見える。
だがすべてが汚れている。
それは尋常な汚れではなかった。
まるで何かがこびりつき、それから長い時間が経過したような、『腐』をイメージしてしまうような部屋だった。
水垢と緑色の液体で真っ黒に汚れた洗面器と鏡。
床も壁も天井も、そしてバスタブに備え付けられている全開のカーテンもそうだ。
すべてが黒い緑に染まっている。
だが気になったのはバスタブだ。
そこには腐ったような液体が並々と張ってあった。
そして一瞬、気泡が見えたのだ。
俺は何故か入りたくもないその部屋に近づき、身を乗り出した。
そしてそっと、バスタブの中を覗いてみる。
――何かいる。
ほの暗い水の中に、何か、人の肌のような足やふとももが見えるのだ。
だが考えてみれば、このバスタブ自体は狭い。
だから“大人”が全身をすっぽり顔ごと水の中につけられる訳はないのだ。
だが俺は何故か、それを『人』だと思っている。
まるで夢のようだ。
初めから、何か、一定の情報があり、最初からそれがそうだと分かっているかのようだった。
俺はその部屋を後にする。
何故、疑問を持ちながら最後まで目で確認しないのかも分からない。
だが『済んだ』のだ。
それだけは分かった。
そしてゆっくりと、また歩きはじめる。
すると今度は、生まれてからこれまで見たこともない、巨大なショーケースが見えたのだ。
動物園にあるような、ガラスで囲われた大きなショーケースだ。
中には草木が生い茂っている。
そして立派な木も見えるのだ。
そして何故か、そのショーケースだけは、まったく汚れていなかった。
木もあり、草もあり、土も見えるのだが、壁は汚れ一つない『白』だった。
すると一匹のサルがそこへ現れた。
ケースの中を何やら徘徊している。
「なんだ?」
俺は好奇心から近づいて、見てみたいと思うのだがそうしない。
するとそこで、急にサルがブレ始めた。
映像が乱れるようにブレ始めたのだ。
いや……だがサルに見える。
では、何故? 俺は今、一瞬、そう思ったのだろうか?
まるでこのサルが――
「――人間のようだったかね?」
「へ?……」
すると突然、隣で声がした。
俺の隣に、金の線の入った長く白いローブを纏った男がいる。
俺は何故か、最初から彼がそこにいることを分かっているようだった。
「そうだ、君は分かっている。瀬川裕人――」
俺は知らない男に名前を呼ばれても、まったく驚かなかった。
「疑問など何もない。ここにあるのは、理。真実だけだ」
そうだ。俺は分かっている。
ここに来た時から分かっている。
だが何を分かっているのかが、分からない。
「急ぐことはないさ。君はもうすでに、それを手にしているのだから」
するとその瞬間、俺の周りを、何人もの人間が囲んだ。
まるで円を作るように。
皆その男と同じ身形をしている。
「瀬川、我らの故郷『ロードレイク』は滅ぼされた。今はもう我らが愛した『卿の湖』すらない。悲しいことだ。瀬川? 君はあの時、何を思った? ん? 彼女ではなく、火に焼かれたのが自分で良かったと、そう思ったか?」
そうだ……俺は意識が遠き、死すら感じなくなった刹那。
そう思った。
――片平さんが、無事で良かったと。
「愚かだ……純粋なほどに愚かだ。だがその愚かさが必要なのだ。他者を愛するその心が……我らにはそれが足りなかった。だが後悔はしていない。何より、我らは長い時が経った現在においても、彼らを恨んでいる」
「ああ……分かるよ」
「だから君に託すことにしたのだ。異世界人の君なら分かるだろう? 『知識』というものを失った世界が、どうなるのかを?」
「ああ……そこにはもう……」
「そうだ。だから我らは君に託すことにした。転移者でありながら『狭間』の影響を受けず、覚醒因子を持たなかった君に……」
「だけど……俺はもう……」
「大丈夫だ。君はまだ生きている。我らが転移した。“彼女”の元へ」
彼女?
それだけは俺にも分からなかった。
「ここを出れば、君は今知った真実の大半を忘れるだろう。そして時間をかけ、徐々に思い出していく。それまでは悩み、励み、そして生きなさい。だがもし、思い出した時は、我らのことを思ってほしい。君にすべてを託すことにした、我らのことを――」
すると周囲にいた、白装束の者たちが一人ずつ、順番に消えていく。
そして最後に、その男だけが残った。
すると男は、俺の肩に手を置いた。
「我らは急ぎ過ぎたのかもしれない……この判断も間違っているのかも、しれない」
すると男は離れる。
それと同時に、体が徐々に透け始めた。
その男も、俺も……。
「君の中に生まれた空の器。君は『選別』を終え。そこに今、我らの『知識』が宿った。後は好きにしなさい――」
その瞬間、白い視界が一気に、暗くなる。
俺は何故、ここにいるのだろうか?
ここはどこなのだろうか?
さっきまで知っていたはずの何かが、徐々に消えていく。
そして俺は、また深い闇に落ちていった。
▽
目を開けると、見えたのは天井だった。
そして暖炉。
暖炉の中では、火が薪を鳴らし踊っている。
ここはどうやら小さな民家のようだ。
そして俺はベッドの上で仰向けになっていた。
「あら、目が覚めたのね?」
すると声が聞こえ、一人の女性が俺の顔を覗き込んだ。
「ここは、どこですか? あなたは誰ですか?」
声は普通は出た。
すると女性は笑った。
「ここは私の家よ。そしてわたしは……ドロシー」
「ドロシー……さん?」
すると女性はまた薄らと笑みを浮かべた。
「意識はあるようだし、どうやら成功したみたいね」
「……成功?」
「珍しいこともあるものね。ここに人が来ることなんてないはずなんだけど」
この人の言っている意味が分からない。
「あなたは家の前で倒れていたのよ。そして酷い火傷を負っていた。普通なら生きてはいられないような火傷だったわ。私も最初はもう死んでいるものとばかり思っていたんだけど」
……火傷。
そうだ、俺はあの時、背中から火を浴びた。
そして気づくと火だるまになって、体が焼ける痛みがあって、それから……。
「ゲホッ! ゲホッ!」
「大丈夫?!」
するとドロシーさんは、水を持ってきてくれた。
「飲みなさい。何があったのかは分からないけど。今は思い出さない方がいいわ。精神が乱れると、せっかく馴染んだ体が、はがれちゃうから」
「馴染んだ……体?」
この人はさっきから、分からないこと言う。
馴染んだとはどういうことなのか?
するとドロシーさんは何かを思い出したように、部屋の奥へと消えた。
そしてしばらくすると、戻ってきたドロシーさんの手には手鏡があった。
「落ち着いて聞いてくれる?」
「……はい、何ですか?」
妙に真剣な表情だ。
「その……あなたは大火傷をしていて、とてもじゃないけど生きていられるような状態じゃなかったの。私が見つけた時には、もう死ぬ寸前だったわ」
「はい、それで……ドロシーさんが助けてくれたんですよね?」
その証拠に、こんなにも流暢に話すことができる。
そして痛みもない。
あの焼ける痛みがないのだ。
「ええ、だけどその……普通の治療じゃ助けられなかったの。というより、あなたは今も完治しているわけではないのよ?」
「はあ……というと治療中ということですか? ドロシーさんは医者なんですか?」
「私は医者じゃないわ。だけどその話は、今はおいておきましょう。そうじゃなくて、私が言いたいのは……」
歯切れが悪い。
一体この人は何を躊躇っているのか?
「あなたは生身の状態では生きていられなかった。だから代わりに別の体を用意したのよ。そして今あなたの身体には、その仮の体の中で、治療を施している。ゆっくりと時間をかけてね」
「な、なるほど……つまり俺は今、本体ではないということですね? だからドロシーさんは見せるために、鏡を持っているとうわけですか?」
何となく状況が分かってきた。
「理解が早くて助かるわ。そうよ。つまり、そういうこと。それでね、内臓は無事だったから治療しないといけないのは表面だけなんだけど、それでも時間がかかるの。だからその……しばらくは……」
だからこの人は何を躊躇っているのか?
「言いたいことは分かりましたので、鏡を貸してくれませんか? 今、自分がどんな様子なのかみたいんです」
するとドロシーさんは、俺に鏡を差し出した。
「怒らないでね? あの時は急いでいたし、それに周りにそれしかなかったのよ」
「何の話ですか?……」
俺は鏡を受け取り、そして自分の顔をみた。
そして驚愕し、次に茫然とした。
「その……ごめんなさい。それしかなくて」
「どういう……ことですか? なんで、こんな……」
「媒体なら何でも良かったんだけど、2足歩行ができて、それで手もあるとなると、この家にはそれしかなかったの。もちろん! 一生そのままってわけじゃないわ! 治療が終わったら、ちゃんと体は取り戻せるから」
「分かってます。分かってますけど、これは……あんまりですよ……」
そこに映っていたのは、
――ピンク色のクマだった。
テディ―ベア。
俺はクマのぬいぐるみにされてしまったらしい。




