10 聖杯の番人 ②
神殿の最奥にある宝物庫。
そこは厳重に鍵がかけられており、滅多なことでは出入りできないようになっている。
ただ一人、『聖杯の番人』を除いて。
聖杯の番人。
それは聖杯を守り、管理する者の呼び名である。
毎朝、宝物庫を訪れ、聖杯が何事もなくそこに鎮座していることを確認する。
それが聖杯の番人と呼ばれる者の主な仕事だった。
そう聞くとひどく簡単な仕事のように思えるが――まあ、実際のところ、そうなのだが――聖杯の番人には、誰もがそう簡単になれるわけではないのだ。
まず第一に、聖杯から選ばれなければならない。
不思議なことに、聖杯は人間のように自らの意思を持って、自分の世話をする者を選ぶのだ。
しかも、だ。
聖杯は大変に狭量で、その者の一番大事に思う対象が他の人間であることを許さない。
なので、聖杯は、天涯孤独な身の上の者を好んだ。
それは徹底しており、親兄弟がどこかで生きているような孤児では駄目なのだ。
完全に、その者以外の血族が途絶えた人間だけが、聖杯に触れることを許された。
その禁を破って他の者が聖杯に触れた場合、触れた箇所が腐り落ちるという凄まじい罰が降りかかった。
シリルが15歳になった年、前任の聖杯の番人が亡くなった。
天涯孤独な老人の死因は、穏やかな老衰だったという。
その頃のシリルは、潤沢な魔力によって生み出される魔法の力を高く評価され、魔法使いの塔の長から『そなたは塔で修行すれば、稀有な大魔法使いになれるに違いない』とまで言われていた。
だが、シリルが魔法使いの塔に行くことはなかった。
聖杯によって選ばれ、聖杯の番人になったからだ。
初めて聖杯の前に立った時、シリルは何とも言えない幸福感と、自分の両親はもう既に亡くなっているのだという悲しみとで、頭の中がひどく混乱した。
だが、その混乱の後、シリルには幸福感だけが残った。
全てに捨てられた自分だが、聖杯だけはそんな自分を唯一として選んでくれたのだ。
そうして毎日、聖杯の側に寄り添い、聖杯を守るために宝物庫の警備に当たった。
とはいえ、それは宝物庫の中に置かれた椅子に座り、時々聖杯を眺めつつ読書するだけの日々だった。
そんなシリルを周囲は侮り、時には心無い言葉を投げかけて来た。
おとなしく気弱なシリルは、それに対して何も言い返すことは無かった。
聖女召喚の儀式が行われたのは、そんな生活を続けて十年の月日が経った頃だった。
そして、あの時、聖杯はシリルの元を去り――今こうして、再びシリルの目の前にある。
喜びに泣くシリルを見て、ユイは慌てて言った。
「あの、私、聖女じゃないかもしれないですよ?」
「そんなはずはありません~! 聖女様でなければ、この聖杯に触れることはできないのですから~!」
「そうなの?」
「はい~、聖杯の番人と呼ばれる私以外の者が触れると、指先が腐り落ちてしまうのですよ~」
「ええええええええっ!?」
「うわああああああっ!?」
ユイは驚きの余り、思わず手に持っていたゴブレット――聖杯をテーブルの上に落っことしてしまった。
ゴトッ、と鈍い音を立ててテーブルの上に落ちた聖杯を、シリルが慌てて拾い上げる。
必死に目を見開き、傷が付いていないか確かめたシリルは、聖杯が無傷であるとわかると、ほーっと長く安堵のため息をついた。
「驚かせないで下さい~、心臓が止まるかと思いましたよ~」
「ご、ごめんなさい」
そう言いながらユイは、慌ててテーブルの上に投げ出された矢車草を拾い上げていた。
茎が折れてしまっているそれに、ユイが小声で『治れ~』と呟く。
淡い光のヴェールが矢車草を包み込み、数秒後に金色の光の粒子に変わり消えていく。
すると、さっきまで折れていた茎は元通りになっていた。
「…………っ!?」
シリルは驚きに目を見開き、ユイと矢車草を見つめ呆然としていた。
ユイはそんなシリルから視線を外し、先程から黙って足元で一緒に話を聞いていた太郎に向かって苦笑交じりに言った。
「もう、全部話しちゃってもいいよね」
「ワフ!」
「だよね! 今更だもんね!」
「ワン!」
そしてユイは、この世界に来てからのことを全てシリルに話した。
話が脱線しそうになったり、シリルがあまりよく理解できてなさそうな時には、太郎が『ワン!』と上手く間に入ってくれたのでなんとか上手く伝えることができたと思う。
全てを話し終え喉が渇いたユイは、台所に行き、隅に置いてある水瓶から柄杓で水を汲んだ。
木のコップ二つと、深めの皿に入れて、トレイに乗せて戻って来ると、太郎とシリルの前に置きどうぞと言った。
美味しそうに深皿から水を飲む太郎。
それを見て、長いこと喉の渇きを覚えていたシリルは、お礼を言うとすぐにコップに口を付けた。
「こ、これは!」
一口飲んで、シリルが叫んだ。
そしてすぐにコップの水を勢いよく全部飲み干す。
「おかわりはいかがですか?」
「お願いします~!!」
その後、シリルは立て続けに五杯も水をおかわりした。
ユイは、そんなに飲んで大丈夫なのかと心配なり、途中で止めようかとも思ったのだが。
お腹を壊してしまった時は、『治れ~』をしてあげればいいか、と思い、そのまま好きなだけ飲ませてあげることにした。
ひとしきり飲んで満足したのだろう。
シリルが口元を手の甲で拭いながら、うっとりとした表情で呟いた。
「こんなにも美味しい水を飲んだのは、生まれて初めてです~」
「そんなに? もう、シリルさんてば、大げさだなあ」
あははとユイが笑い、ワフッ!と太郎が吠えた。
「あ、そうだ、シリルさん、お腹空いてない?」
ふと思いついたように、ユイが台所から何かを持って来た。
それは、藤で編んだ籠いっぱいに入った、庭の木の実。
ユイが『ごはん』と呼ぶあの茶色いアボカドのような実だった。
「ま、まさか、そんな……!?」
それを見たシリルは、一言そう呟くと、再び石のように動かなくなってしまった。




