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異世界でスローキャンプ生活を始めたら、なぜか女神として崇められてました  作者: 佐藤正由
異世界キャンプ生活 第2期

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第96話 異世界で“二つの関所”を見た日

 朝の霧が薄く漂い、音を吸い込んでいた。

 ネストリアの関所――難民の流出を塞ぐために急ごしらえで築かれた木の門は、湿り気を含んで黒ずみ、蝶番は錆び、見張り台には誰の姿もない。戸板は反り、縄の結び目はほつれて垂れ下がっていた。


 エドランは列の最後尾からそれを振り返った。

(守るためではなく、縛るための関所。人が去れば、ただの朽ちた門だ)


 先頭には領主バルド、隣に甲冑で虚勢を張るリュート。随行の兵は二十名に満たない。槍の穂先はまちまちで、革紐で継いだ槍柄の節が歩くたびに揺れている。小脇に抱えた食料袋は薄く、隊列はすぐ乱れた。


「記録せよ、エドラン」

 バルドが低く言う。

「これは視察であって、侵攻ではない」


「承知しました」

(“視察”――威信を示す、と言い換えてもいい。だが、その威信はもう……)


 背後で兵がぼそりとつぶやいた。

「うちの関所、板壁ひとつ直すのも一苦労だったってのによ」

「木釘も足りねえ。大工呼ぶ金もねえ。門番の俸給も延滞中だ」

 別の兵が小声で応じ、すぐに口を閉ざす。誰も上に聞かせる気はない。


 道は谷へと下り、森は深さを増す。列は遅く、靴音はばらばらだ。

 夕刻、狭い踊り場のような場所で一息つく。エドランは地図を広げ、指で谷の曲線をなぞった。


「……ここに“砦”を置くのか――いや、彼らにとっては“関所”なのだろう」

 思わず漏らした独り言に、バルドが目だけで応じる。

「狭道だ。兵を並べられぬ。退くにも、通り抜けるにも、動線は限られる……。あの谷で痛い目を見た者なら、誰でもわかることだ」


 リュートが鼻で笑う。

「まるで狙ったように造りやがって……。どこでこんな知恵を仕入れたんだか」


 エドランは何も言わなかった。沈黙の方が、今は言葉より強いと知っている。


 翌朝、霧がほどける。

 最初に見えたのは、白灰の帯のような線だった。丘の稜線と重なった瞬間、線は“高さ”を持ち、輪郭を持ち、石の壁になった。


 人の気配がすっと消え、次の瞬間ざわめきが広がる。

「……高え」

「石を……どうやってあんな高さまで積んだんだ?」

「壁の目が揃ってるぞ。どうやって……」


 エドランは息を呑んだ。

 石が均一に積まれている。隙間はなく、角はそろい、継ぎ目の段差はほとんど見えない。

 高くそびえる壁の上には、影が動いた。人影――見張り台かもしれない。

 門の下方には浅い溝が延び、雨水を逃がす仕掛けのようにも見えた。

(人工の美しさ――)

 その言葉が、彼の中で音になった。


「奇跡だ」

 リュートが呟き、すぐに怒声に変える。

「どんな魔法を使った? こんなことが人間にできるはずがない!」


 霧が晴れるにつれ、壁の上で影が動いた。

 弓を構えた兵たち――その中央に、指示を送る長身の男の姿が一瞬だけ見えた。

 陽に照らされた横顔を、エドランは見間違えようとはしなかった。

(……ガルシア殿?)

 彼は何も言わず、ただ手を下げた。

 その合図に、弓兵たちは静かに弓を下ろす。

 他の者たちは、その存在に気づいていない。


 門が静かに開く。きしみは小さく、鉄と油の匂いがかすかに漂った。

 先頭に立つのは、黒髪の女――真希。

 背後には村人と元兵士たちが並び、皆がこちらを正面から見ている。


 バルドは馬から降り、歩み出た。

「視察に参った。争う意図はない」


 真希は小さく会釈した。

「門を開くかどうかは、互いの意志の問題です。こちらに争う意図はありません。ここは人が行き来できる“門”でありたい」


 “門”。

 バルドはその言葉を噛みしめるように繰り返した。

「……わたしの造った関所は、人を閉ざすための門だった」


 リュートの顔が朱に染まる。

「下民どもが――何を偉そうに!」


 ダイチが半歩前に出た。石を踏む音が響き、彼の影がリュートの前で大きく揺らぐ。

 シエルが目だけでダイチを制し、真希は視線をバルドから逸らさない。

 緊張は一瞬で張り、そして、音もなく緩んだ。


 そのとき、歩廊の上から子どもの声がした。

「合図、もう一回! 三つ、短く!」

 小さな手が紐を引き、澄んだ鐘の音が三度、谷に走る。少し遅れて、別の場所から同じ音が返る。

 ネストリアの兵たちは、言葉を失った。


「……俺たちの関所じゃ、昼に番が寝てた」

「鐘なんて、壊れっぱなしだった」

「こんなところ、守ってみたかったな」

 年老いた兵の低い吐息が、空気に混じった。


 バルドは門の金具に軽く触れ、うなずいた。

「……見事だ。わが領でも、これほどのものは――いや、もはや比ぶべくもないか」


 真希は淡く微笑んだ。

「これは戦のための砦ではありません。生活のために必要だった“約束”の形です。

 誰かを閉め出すためではなく、みんなが安心して通れるように――そのための“関所”です」


 エドランは胸の内で静かに反芻する。

(同じ言葉が、ここでは別の意味を持つ――“関所”が、人を縛る柵ではなく、人を守る取り決めになる)


 視察は短く、丁寧に終えられた。

 余計な誇示はなく、必要な説明だけが簡潔に示される。

 壁の表面には乱れがなく、周囲にも余計な資材や道具の影は見当たらない。

(どうやって、これほどのものを築いたのか……見当もつかない)

 エドランは静かに息を吐いた。

(力ではなく、積み上げた“知恵”が形になっている――)


 帰路。

 列は行きよりもさらに静かだった。兵たちは自分の足元だけを見て歩く。

 バルドはしばらく無言のまま、やがてぽつりと言った。

「……築くということが、どれほど難しく、どれほど強いかを思い知らされた」


 リュートは唇を噛み、声を出さなかった。甲冑の留め具が、苛立ちを代弁するように時折鳴る。


 エドランは手帳を閉じ、まっすぐ前を見た。

「戦いを避けることは、逃げではありません。領を守るための決断です」


 風が谷を渡り、背に受けた。

 遠く、砦から短く三度、澄んだ鐘が響く。

 ネストリアの兵たちは振り返らなかった。だが、その音は各々の胸の中で静かに鳴り続けた。


(知恵と信頼が築いた“関所”。それは剣よりも強い盾になる)

 エドランは心の中でゆっくりと書き記した。

(次に記すべきは――戦わずに済ませるための、約束の言葉だ)


 霧の向こうに、朽ちた木の門が近づいてくる。

 同じ“関所”でありながら、意味は正反対だった。


 一つは、人を閉ざす門。

 もう一つは、人を通す門。


 ネストリアの列は、その狭間を抜け、黙って街へ帰っていった。

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