第95話 異世界で“崩れた領主の椅子”を見た日
朝の光は薄く、雲の層に吸い込まれていく。
ネストリア領主邸の執務室は、昨日片づけたはずの書類がまた山になっていた。砂埃が舞い、蝋燭の芯が短く黒ずんでいる。
若い書記官――エドランは、紙束を端からそろえながら息をひそめた。
(記録が追いつかない……あの人がいない、というだけで)
名を口に出せば誰かが眉をひそめる。だから心の中だけで呼ぶ。
(ガルシア様がいないだけで、組織はここまで崩れるのか)
税の未納、倉庫荒らし、街門前の小競り合い。
山積みの報告書は、どれも“保留”の朱印が押されたまま、次の紙に追い越されていく。
決める者がいない。いや――決められる者が、いないのだ。
重い扉が開き、領主バルドが椅子に沈み込んだ。
続いて、弟のリュートが酒の匂いをまとって入ってくる。金の飾りの付いた外套は昨夜のままだ。
「民どもは怠けておる!」
バルドの声が室内に響いた。「女神だの砦だの、くだらぬ噂を流しては税を渋る。見せしめが要るのだ」
「放っておけ、兄上」
リュートは杯を揺らし、笑った。「いずれ私がその“女神”を妻に迎えれば、すべて丸く収まる」
筆先が紙をひっかく音を、エドランは自分のものだと気づくまでに数呼吸を要した。
「……女神、ですか」
「そうだ」
リュートの目に、昼の光が薄く映る。「民は信仰に飢えている。ならばそれを利用すればよい。象徴が欲しいのだ。私が与える」
「帝国に恥を晒す気か!」
バルドが机を叩いた。干からびた印泥が跳ねる。「我らは正統な領主一族だぞ!」
(帝国……?)
エドランは胸の内で言葉を転がす。
(その名を口にしたところで、誰が振り向く。辺境のこの地を、もう帝国は見ていない――少なくとも、我らの存在など)
扉が再び開いた。泥に汚れた伝令兵が、膝をついたまま頭を垂れる。
「報告いたします! 谷に――砦が完成しました!」
室内の空気が、凍った。
「……砦だと」
バルドの声は低い。
「はっ。遠目ながら、谷の奥に石を積んだ砦のようなものが見えました。高さは十人分はあろうかと。門は厚く、木と鉄で固められております。壁は滑らかで、継ぎ目がほとんど見えません。……まるで、人の手ではなく岩そのものを削ったかのようでした」
伝令の声は震え、埃まみれの靴が石床を汚した。
エドランは知らず、手の中の羽根ペンを止めていた。
(……谷に、石を。そんなものを築けるのか。帝国でも、あの規模は――)
彼の脳裏に、かつての参謀の声がよみがえる。
『戦を避けるには、戦の先回りをする。備えは、脅しではなく約束であるべきだ』
「馬鹿げている!」
リュートが立ち上がった。「女神の奇跡だ! 人間にできるものか。あれは信仰で民心を惑わせるための虚飾だ!」
「奇跡ではない」
バルドは、ゆっくりと首を振った。灰色の瞳に、鈍い恐れが宿る。
「奴らは我らにない“知恵”を持っている。あの石は、我らの剣より強い」
「ならば奪えばいい!」
リュートは杯を投げ捨てた。赤い酒が床に散る。「女神も砦も、すべて我がものにすればよい。そうすれば帝都も――」
「帝都、帝都とうるさい!」
バルドの怒号が重石のように落ちる。「帝国は我らを見ておらぬ。体裁を繕って誰が褒める! いまは――」
言葉が途切れ、彼は拳を握った。
「敵に回せば滅ぶ。だが従えば、我らの存在価値が消える」
「だから“従わせる”のだ」
リュートの笑みは乾いていた。「力で、婚姻で、象徴で――手段はいくらでもある」
(愚かだ)
エドランは胸の内で呟き、唇を噛んだ。
(あなた方は、まだ“奪う”ことしか知らないのか。奪えば、生き永らえると本気で思っているのか)
会議は険悪のまま散会となった。椅子の脚が石床を引っかく音が、長く尾を引く。
やがて静寂。執務室に残ったのは、紙の擦れる音と、蝋が滴る微かな気配だけ。
エドランは書類を抱え、廊下に出た。
窓の外――城下の通りはやせ細り、露店の棚は空に近い。門前で、幼い子らがぼんやりと腰を下ろしていた。
衛兵の姿はあるが、視線は荒れ、靴の底はすり減っている。
(……ガルシア様。あなたは何を思って去ったのですか)
(私は、まだ決められない。正しい答えを探そうとしている――それが逃げだと気づかぬまま)
彼は指先に残るインクの匂いを、ぎゅっと嗅いだ。
(このままでは、この国は……)
(決めねばならない。誰かが、理性の火を運ばねばならない。躊躇している時間は、もうない)
遠くで、風が鳴った。
執務室の奥、誰も座らぬ領主の椅子が、ゆっくりときしむ音を立てた。
――崩れた領主の椅子の音は、誰の耳にも届かない。
だが、それを記す手は、まだ止められてはいない。




