第94話 異世界で“砦の門を守る”と誓った日
朝の光が砦の石壁を照らしていた。
夜露を帯びた石の肌が淡く光を返し、風が吹くたび木の扉が小さく軋んだ。
完成したばかりの砦は、まるで新しい命を宿したように、静かに呼吸していた。
広場では、村人たちと元ネストリア兵の姿が入り混じっていた。
槍の穂先を磨く者、壁の継ぎ目に土を詰める者、子供の笑い声に目を細める兵士。
誰もが忙しく動いているのに、どこかぎこちなさが残る。
昨日まで敵だった者たちが、同じ場所で汗を流す――その現実に、心が追いつかないのだ。
私は砦の門を見上げながら、小さく息を吐いた。
「……形はできた。でも、人の心の壁は、まだ崩れきってはいないのね」
隣でシエルが腕を組む。
「ふん。壁なんて、壊すより積むほうが簡単よ。けど、積みすぎると自分まで閉じ込める」
「それ、あなたらしい言い方ね」
思わず笑うと、シエルも照れたように目をそらした。
そのとき、広場の方で声が上がった。
「おい、待てよ! なんでこいつらにも同じ量のパンを渡すんだ!」
村の若者の一人が、食料分配をしていた女に詰め寄っていた。
女の手には干し肉の入った籠。彼の視線の先には、元ネストリア兵の男がいた。
若者の拳が小刻みに震えていた。怒りと恐れの入り混じった顔で、彼は叫んだ。
「昨日まで俺たちを襲ってきた連中だぞ! なんで同じ釜の飯を食う必要があるんだ!」
その場の空気がぴんと張り詰めた。
見ていた子供たちが不安げに顔を見合わせる。
私は歩み寄り、間に入った。
「……その言葉、間違ってはいないわ」
若者が一瞬、驚いたようにこちらを見た。
「確かに彼らは、かつて敵だった。命を奪おうとした者たちでもある。
でも、今ここで彼らがしているのは――その手で命を奪うことをやめ、壁を積み、子供を守り、同じ明日を作ろうとしていることよ」
若者は唇を噛み、視線を落とした。
その横で、包帯の兵士――ラスティンが静かに口を開く。
「俺たちは命令に従って動いただけだ……。けれど、それで罪が消えるとは思っていない。
だからせめてこれからは、誰かを傷つけるんじゃなく、誰かを支える側にいたいんだ」
彼の言葉に、周囲の人々がゆっくりと息をついた。
長い沈黙のあと、年配の男がぽつりと言った。
「なら……まずは、腹を満たしてからにしようや。
空腹のままじゃ、どんな話もまともにできやしない」
そう言って、彼は焚き火の鍋を持ち上げた。
中では麦と野菜を煮込んだ湯気が立ち上り、香ばしい匂いが漂う。
その場にいた誰もが、少しずつ顔をほころばせた。
***
夕暮れ時、広場の中央に長い木の台が並べられ、炊き出しが始まった。
村人も兵士も、同じ鍋を囲み、木の椀にスープを注いでいく。
最初は遠慮がちに座っていたが、子供たちが走り回り、笑い声を上げるうちに空気は和らいでいった。
木の器を打つ音と、スープの湯気に混じる香草の匂いが、広場を満たしていた。
「おじさん、剣の持ち方教えて!」
「おいおい、そんなに軽く振ると風に流されるぞ」
ラスティンが笑いながら、木の枝を持った子供に手本を見せる。
近くにいた母親が微笑み、「……あの人、前よりずっと穏やかな顔ね」と呟いた。
私は少し離れたところから、その光景を見守っていた。
シエルが隣で鼻を鳴らす。
「なんか、肩透かしね。戦の準備してるっていうのに、みんな笑ってる」
「いいことよ。戦わずに済むなら、それが一番」
「……でも、それが一番難しい」
そう呟いたシエルの横顔が、夕陽に照らされて揺れた。
***
夜になっても、砦の広場には焚き火の灯りが絶えなかった。
炎を囲みながら、村の若者とラスティンが向かい合って座っている。
さっきの食料騒ぎの二人だ。
若者が焚き火の棒をいじりながら、ぽつりと口を開いた。
「……悪かった。お前たちの家族も、俺たちと同じで……誰かを守りたかったんだよな」
ラスティンはしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。
「俺も、お前と同じだ。息子を想う気持ちは、誰にも負けねえつもりだ。
だからもう、誰かの息子を奪うような真似はしねえ」
二人は無言で右手を差し出し、固く握り合った。
その様子を見ていたガルシアが、砦の門の方へ視線を向けた。
風に揺れる松明の灯りの向こうに、黒くそびえる石門が静かに立っている。
「……この光景を、俺は一生忘れないだろう」
その呟きは、夜風とともに砦の門へと吸い込まれていった。
***
翌朝。
東の空が淡く染まりはじめたころ、私は砦の門の前に立っていた。
昨日までの騒ぎが嘘のように静まり返り、朝露に濡れた石畳が光を返す。
集まった人々が私を見つめている。村人も、元兵士も、子供たちも。
私はゆっくりと口を開いた。
「――この門は、戦のために閉じるものじゃない。
誰かを閉め出すためでもない。
ここで暮らすみんなが、安心して眠れるように守るための門よ」
風が吹き抜け、彼らの衣を揺らした。
「だから――この門を、誰にも奪わせない。
私たちが守るのは、砦ではなく――“ここに生きる人々の未来”よ。」
その言葉に、誰からともなく槍の柄が掲げられた。
木槌を、鍬を、針を、誰もが自分の手にある“仕事道具”を高く掲げる。
それは戦いの誓いではなく、共に生きる誓いだった。
朝日が砦の上から差し込み、人々の頬を照らした。
光の中で、私は心の中で静かに呟いた。
――この門は、戦ではなく希望を守るためにある。




