第93話 異世界で“砦の完成”を見上げた日
朝の谷は青い。石肌に残る夜露が薄く光り、風が吹くたび、崖の上に渡した木橋の板がわずかに鳴った。
最後の一石が、ゆっくりと空を泳いでいく。四つの滑車に通した縄が軋み、二十人の手が一斉に力を込める。
「せーの!」
掛け声に合わせて石が降り、台座に“コトン”と収まった。
ガルシアが槌で軽く叩き、響きを聴く。
乾いた澄んだ音。彼が顎を引く。
「――据え付け、完了だ」
どっと歓声があがった。ベルデ村、フォルデン村、シオーネ村、そして捕虜となった兵たちまでが互いの背を叩き合い、笑い、涙ぐむ者もいた。
吹き抜けの上には歩廊が走り、外周の二つの階段は砦上へ続いている。高さはついに十メートル。
谷を塞ぐ“壁”が、私たちの手で立ち上がったのだ。
「……やったな」
ダイチが空を仰ぎ、眩しそうに目を細める。
シエルは尾をふわりと揺らして笑った。
「ようやく“守る形”になったわね。通路を片方封鎖して、“おいでおいで”して上から雨を降らす。気持ちよく撃退できそう」
「気持ちよく、は物騒だけど……」
私は苦笑しつつ、石の肌に掌を当てた。
冷たいはずの石が、どこか温かく感じられる。ここに積まれた汗と息遣いを、石が覚えている気がした。
◆
広場に人が集まり、ささやかな完成の場が設けられた。
セムが一歩進み出て、砦を見上げる。
「この砦は、自治区の象徴だ」
短く、しかし重い言葉。
オルネスが続ける。
「同時に、外へ向けられた私たちの“返答”でもある。――大事なのは使い方だ。守るために使おう」
ミレナが帳簿に新しい行を書きつけた。
『本日、谷の砦、完成。吹き抜け・歩廊・二階段、竣工確認』
乾いたインクが、日付の横に定着していく。
捕虜兵のラスティンは腕を組み、静かにうなずいた。
「これで、俺たちは家族を守れる」
デルナが短く「そうだ」とだけ言い、トマスは照れたように笑った。
「……ちゃんと役に立てて、よかった」
◆
完成直後から、交代の見張りが始まった。
シエルとダイチが最初の当番だ。二人は歩廊を風に乗って歩き、吹き抜けの縁から谷の外を見張る。
足下で、子どもたちが手を振った。
「お城みたいだ!」
私は柵越しに笑い返す。――これは奪うための砦じゃない。守るための砦だ。
夕刻、空気がわずかに揺れた。
遠見の稜線に、陽炎のような影が立つ。
シエルの耳がぴくりと動いた。
「……あれ、見える?」
ダイチが鼻をひくつかせる。
「人の匂い。複数。風下だ。こちらを窺ってる」
すぐにガルシアを呼んだ。彼は影の位置と風向きを確かめると、短く息を吐いた。
「偵察だ。ネストリアの目だろう」
周囲に緊張が走る。武器を取る手が増え、誰かが「追い払うか」と言いかけたその時、ガルシアが手を挙げて制した。
「――あれ以上は近づけまい。今のネストリアに、この砦へ手を出す余力はない」
人々がざわめく。ガルシアは砦に背を預け、低い声で続けた。
「帝国からは見放されて久しい。援軍など望めぬ。バルドもリュートも、帝国に取り入りたいがために体裁ばかり気にしているが……実際には相手にもされていない。あの影は、“恐れ”と“羨望”の混じった目だ」
誰かが問うた。
「ネストリアは、もともと帝国の辺境なのでは?」
ガルシアは小さく首を振る。
「成り立ちは違う。前領主――エルネスト様は、中央の権力争いに敗れてこの地へ送られた。左遷に近い扱いだった。だが、あの方は自ら鍬を握り、道を切り開き、民と共に村々を興した。……ネストリアは“辺境に落ちた男と民の開拓”から始まった土地だ。だからこそ、誇りがあった」
彼は視線を上げ、完成した砦をしばし見つめる。
「俺は帝国で多くの砦を見、いくつかは設計にも加わった。だが――石をこれほど高く積み、吹き抜けに歩廊を巡らせ、狭間から上下を睨む。これほど“守りの知恵が形になった砦”は見たことがない。……これは、この地だけの砦だ」
その言葉に、ざわつきが静まった。
石の壁に夕陽が差し、淡い金色が段を走っていく。
誇りと、不安と、昂ぶりと。胸の中に相反するものが折り重なり、私は深く息を吸った。
「恐れる必要はないわ」
私は歩廊の上から声を放った。
「この砦は、争うためじゃない。誰かが奪いに来ても、誰の子も泣かせないための砦。――誰にも、奪わせない」
足下で、リサナが子の手を握り、うなずいた。
捕虜兵たちの眼にも、静かな火が灯る。
広場にいたセムが短く応えた。
「守ろう。ここを」
◆
夜、焚き火が点々と灯る。
子どもたちは今日から砦の下で眠るのだと言って、毛布を抱えてはしゃいでいた。
私は見張りの交代を見送り、ガルシアと並んで炎を見つめる。
「……帝国にいた頃でも、ないのね、こんな砦は」
「ない」
即答だった。
「帝国は“見せる砦”を好む。威容と紋章で威圧する城塞だ。だがこれは違う。構造が機能と直結している。知恵と労力が、恐ろしく無駄なく噛み合っている……」
彼は小さく笑った。
「――女神の奇跡ではない。人の仕事だ。だからこそ、強い」
炎がはぜる。
私は肩の力を抜き、夜風を吸い込んだ。潮と草と、遠い焚き火の匂い。
谷の向こう、闇の稜線には、もう影は見えない。だが確かに“見られた”。
こちらの覚悟も、あちらの焦りも、同じ夜に刻まれたのだ。
◆
翌朝、砦ではさっそく訓練が始まった。
歩廊での弓の運搬、吹き抜け縁からの合図、二つの階段での交差動線。
ラスティンが声を張り、トマスが若者たちに結びの仕方を教え、デルナが盾の位置を直して回る。
ミレナは記録を取り、オルネスは物資の配分を調整し、セムは交代表を整える。
――誰もが、自分の役をやっている。
砦の影で、私は掌を握りしめた。
震えていない。昨日までの“積む不安”は、今は“備える意志”に変わっている。
石は冷たく、重い。けれど触れれば、皆の息遣いが返ってくる。ひとつに束ねられた鼓動が、この壁に生きている。
私は心の中で、そっと言葉を置いた。
――ここからが、始まり。
守るために、暮らすために、笑うために。
この砦は、戦うための終点じゃない。生きるための起点だ。
太陽がのぼる。石の段に、新しい一日が差し込んだ。
谷を渡る風はもう冷たくない。砦の上を、旗ではなく人の声が走っていく。
そして、遠い稜線の向こうで誰かが舌打ちをしながら見上げているなら――その視線すら、私たちの“生きる証”になるだろう。




