第92話 異世界で“砦の壁”を積み上げた日
朝靄が谷を包み込んでいた。崖の上にかけられた木橋は、夜露を吸い込んで光り、吊るされた滑車の縄はしっとりと濡れていた。
そこに再び、自治区の人々が集まった。ベルデ村、フォルデン村、シオーネ村、そして捕虜となった兵たち。昨日に続く作業のために、皆が縄を握り、肩を並べている。
ガルシアが低い声で言った。
「今日からは本格的に積み上げていく。目標は――高さ十メートル。そこまで積めば、砦としての役割を果たせるはずだ」
人々の表情に緊張と期待が交じった。昨日、初めて石を一つ積んだときに歓声を上げたその顔が、今日は覚悟を帯びている。
◆
最初に持ち上げられたのは、昨日よりさらに大きな石だった。四つの滑車に縄が通され、二十人ほどが一斉に引き始める。
「せーの!」
縄が軋み、滑車が鳴いた。石がゆっくりと浮かび上がる。
昨日の失敗を繰り返さぬよう、今回は横方向のロープを倍に増やしていた。左右から大人と捕虜兵が制御し、揺れを抑え込む。
「止めろ、まだ速い!」
ガルシアの鋭い声が飛ぶ。
すぐに動きが鈍り、石は安定した。
「よし、そのまま……下ろせ!」
石が台座に収まると、ガルシアが槌で叩き、響きを確かめた。
「合格だ」
その言葉に安堵の息が漏れ、子どもたちが拍手を送った。
◆
昼前には三段目まで積み上がっていた。
大工のヨラムが汗を拭いながら言った。
「石が重なるごとに圧力が増す。だからこそ、下の石の選び方が肝心だ。欠けやひびのある石は使えん」
フォルデン村の若者たちはヨラムの指導を受け、崖下で選別を始めた。石の目を読み、形の良いものだけを縄に括り付ける。
シエルは崖の上で腕を組みながら見下ろした。
「人間ってのは、案外しぶといわね。昨日まで震えていたのに、今日は誇らしげに石を担いでる」
ダイチが隣で頷く。
「家族のため、村のため……やれることは何でもやるんだ」
捕虜兵たちも黙々と作業を続けていた。
ラスティンは縄を締め直しながら静かに言った。
「俺たちは命令に縛られてきた。だが今は違う。家族を守るために、ここで汗を流している」
デルナが短くうなずき、低い声を落とした。
「ならば、この腕を惜しむな。砦が完成すれば、もう誰にも奪わせはしない」
その言葉に周囲の村人がうなずいた。昨日まで敵と呼んでいた男の言葉が、今は仲間の声として響いていた。
◆
午後になると、石の壁は人の背丈を超えた。
崖の上から石を吊り上げるたび、縄を引く者の背筋が浮き出し、額から汗が滴り落ちた。
「次は北側の壁だ!」
「揺れを抑えろ、もっと右だ!」
声が飛び交い、手のひらの皮が擦れて赤く染まっても、誰一人として手を離さなかった。
私は作業の合間に図面を見直し、ガルシアに言った。
「吹き抜けの上に、簡単な歩廊を作れない? 弓兵が動けるように」
ガルシアは驚いた顔をしたが、すぐに口元を引き締めた。
「なるほど……真希殿の発想は柔軟だな。分かった、通路を加えよう」
そのやり取りを見ていたミレナが微笑んだ。
「一人の知恵が、皆を導くのですね」
私は首を振った。
「違うわ。知恵を形にするのは、皆の力よ」
ガルシアはそのやり取りを静かに見つめていた。女神として信じているわけではない。ただ――知識と論理を武器にする彼女を、軽んじることはできない。一目置くべき存在だと、心の中で認めていた。
◆
日が傾き始めるころ、砦の壁は五メートルを越えていた。
下から見上げると圧迫感があり、人々の顔に誇りが浮かんでいた。
だがその喜びの裏で、私は背筋に冷たいものを感じていた。
――崖の向こうに、ネストリアの兵の影があるかもしれない。
彼らがこの砦の存在をどう受け止めるのか。それを考えると、胸の奥に重たい石が沈み込んでいくように感じられた。
シエルが耳をぴくりと動かし、私を見やった。
「気配は今のところない。でも……気を抜くのはまだ早いわね」
私は小さくうなずき、壁の影を見つめた。
◆
夜。焚き火の炎が赤く揺れていた。
大人たちは手を癒すために布を巻き、子どもたちは疲れ切って眠っていた。
火の輪の中で、オルネスが口を開いた。
「この砦は、自治区の象徴になるだろう。……だが同時に、争いの火種となるかもしれん」
セムがゆっくりとうなずく。
「それでも、立てねばならん。未来を守るためにな」
ガルシアは黙って火を見つめていた。やがて、低い声で呟く。
「俺はネストリアで多くの砦を築いてきた。だが、民のために築くのはこれが初めてだ……」
その声に、私は言葉を失った。彼の肩越しに見える火の粉が、夜空へ舞い上がっていった。
◆
翌朝、再び石が積み上げられた。
昨日まで震えていた手が、今は迷いなく縄を握っていた。
砦は日ごとに姿を変え、やがて十メートルに迫る高さとなる。
吹き抜けの上には歩廊が設けられ、二つの階段が壁を登っていた。
未来を守る壁は、確かに形を成し始めていた。
その姿を見上げながら、私は心に誓った。
――必ず、この砦を完成させる。そして、誰一人奪わせはしない。
谷を渡る風が、積み上げられた石を撫でていった。
その音は、まだ見ぬ未来の鼓動のように響いていた。




