第90話 異世界で“忠義の終わり”を選んだ夜
夜の城下町は、昼間の喧騒を忘れたように静かだった。
石畳に灯る松明の光は頼りなく、行き交う人影もまばらだ。私は屋敷へ戻り、重い扉を閉めた。蝋燭の揺らめく光が書き物机を照らし、その上には紙束が積まれている。
そこに記された名を見つめる。ラスティン、トマス、デルナ。捕虜となった兵たちの名だ。
何度も読み返すうち、胸の奥で苦いものが膨れあがっていく。
――彼らは従っただけだ。
命令に背けば、妻や子を人質に取られる。兵に抗う余地などなかった。
それを知りながら「勝手にやったことだ」と切り捨てるのが、今のネストリアだ。
私は拳を握りしめた。蝋燭の炎が揺れ、紙に映る影が震えた。
◆
「……また同じ顔をしているわね」
背後からかけられた声に振り返る。妻が盆を手に、静かに部屋へ入ってきた。盆の上には水差しと木杯。長年の連れ合いだからこそ、声色に滲む厳しさが分かる。
机に水を置きながら、彼女は目を逸らさずに言った。
「あなたが仕えてきたネストリアは、もう昔のネストリアではないのでしょう?」
私は視線を落とした。
「……兵たちを見捨てたくない。だが、あの兄弟は家族を人質にして従わせる。そんな手段を何とも思っていない。これ以上加担するのは……」
言葉が途切れる。喉が焼けるように痛む。
「あなたはずっと迷ってきた」
妻は静かに続けた。
「エルネスト様に仕えた頃から、あなたは誠実であろうとした。民を守ることを自分の誇りにしてきた。でも――」
扉が軋み、足音が近づく。振り返ると、息子が姿を現した。
十九歳。幼さを脱ぎ捨て、背丈はすでに私に並ぶ。兵として鍛えられた体つきは、少年ではなく一人の若者のそれだ。
「父上。……また悩んでいるのか」
「お前には関係ない話だ」そう言い放とうとした。だが息子の瞳は真っ直ぐだった。
「関係ある。俺もいずれ兵になるんだろう? 父上が仕える相手が、人を人とも思わぬ連中なら……俺はそんな未来を望まない」
その言葉に、胸が突き刺された。
私の背を追って育った息子が、今こうして問いかけている。これは反抗ではなく、父にすがる叫びだ。
妻がそっと息子の肩に手を置いた。
「聞きましたね。あなたが守るべきものは、ここにあるんです」
私は深く息を吐き、目を閉じた。
「……俺はエルネスト様の時代から仕えてきた。民を思うあの方の背を追い、忠義を尽くしてきたつもりだ。だが、今のネストリアにはその面影はない」
唇をかみ、言葉を絞り出す。
「俺が守るべきは、もはや権威でも名誉でもない。――家族と、兵たちの未来だ」
息子は強く頷いた。瞳に迷いはない。
「なら俺も一緒に行く。父上が選ぶ道を支える」
妻は涙をこらえながら微笑んだ。
「私たちは、どこへでもついていきます。たとえ、この地を捨てることになっても」
蝋燭の火が揺れ、三人の影を壁に映す。
その影は、不安と同時に確かな決意を示していた。
◆
翌日。私はバルドとリュートの前に立ち、捕虜兵の家族の件を切り出した。
「せめて子どもと妻だけでも、自治区に移すことを許していただきたい」
二人は同時に笑った。
「兵士がいなければ、誰が我らを守る?」バルドが杯を弄びながら鼻で笑う。
「勝手に攫われたのだろう。責任は本人たちの愚かさにある」リュートは口角を歪めた。
冷ややかな空気の中、私は深く頭を下げるしかなかった。
だが、胸の奥では既に別の道を選んでいた。
◆
数日後の夜。
私は荷車に毛布と乾パン、薬箱を積み込んだ。妻は幼子を抱く母親を励まし、息子は先頭に立って周囲を警戒した。
「父上、巡回が来ます」
息子が囁く。私たちは藪に身を伏せた。兵の足音が近づき、松明の灯りが一瞬、夜空を照らした。胸が張り裂けそうな緊張の中、兵は通り過ぎていく。誰も気づかなかった。
街道を進む。冷たい風が頬を刺し、荷車の軋む音がやけに大きく響いた。子どもが泣き出しそうになると、妻が優しく背をさすって口元に指をあてる。
――これが私の戦場だ。剣を振るうのではなく、家族を守り抜くための戦いだ。
長い道のりを越え、ようやく谷の拠点が見えた。
まだ砦は完成しておらず、木柵と仮の見張り台が立っているだけだ。だが、その灯りは確かな希望だった。
◆
見張りに立っていた村人たちが驚きの声を上げ、急ぎ駆け寄ってきた。
真希が一歩前に出て、静かに言う。
「ようこそ。あなたたちの選択を、私たちは受け入れるわ」
その瞬間、膝が震えた。重くのしかかっていたものが解け落ちる。
そして――広場の片隅で捕虜兵と家族の再会が始まった。
「父さん!」
ラスティンの息子が駆け寄り、父の胸に飛び込む。副長として冷静沈着だった男が、声を殺して子を抱き締め、涙を隠せなかった。
「母さん……!」
トマスは痩せた母の前で言葉を失った。母は「よく無事で……」と繰り返し、背を撫でながら泣き続ける。トマスも膝をつき、堰を切ったように泣いた。
デルナは二人の娘に抱きつかれたまま、ただ震えていた。
「罰は俺だけでいいと思っていたが……」
低く掠れた声は涙に濡れていた。大きな手は娘たちの小さな手を強く握りしめ、決して離そうとはしなかった。
その光景を見つめるうち、胸が熱くなった。
――これこそ、守るべきもの。
◆
忠義は果たした。だがこれからは、家族と兵たちの未来のために生きる。
私は夜空を仰ぎ、心に誓った。
ここでなら、まだ戦える。
息子は隣で静かに立ち、私の横顔を見つめていた。
――その視線に恥じぬように。私は、もう迷わない。




