第88話 異世界で“潮風に紛れた影”を見た日
潮風が頬を撫でる中、私たちは再びシオーネ村を訪れた。
ベルデ村からはセムと数人の大工、フォルデン村からはオルネスとミレナ、さらに漁に慣れた若者たちが同行している。川と海に暮らす彼らの経験は、この村にとって大きな助けになるはずだった。
海辺の新しい仲間――自治区の一部として正式に認められたシオーネ村を支えるための援助隊だった。
荷車には干し肉や麦袋、布、木材などが積まれている。
焚き火の前に並べると、難民たちの目が驚きに見開かれた。
「……こんなに……」
リサナが子を抱きしめたまま、声を震わせる。
◆
物資の受け渡しが終わると、今度は技術の伝授が始まった。
ベルデ村の大工は、壊れかけた家を見て、修繕の仕方を丁寧に教える。
フォルデン村の若者は、魚を開いて海水に浸し、天日で干す保存食の作り方を実演した。
子どもたちがきゃあきゃあと手を叩きながら真似をし、大人たちも熱心に耳を傾けている。
私は潮の満ち引きを利用した魚捕りの仕掛けを提案した。
「満ち潮のときに石を並べて道を作っておくの。潮が引く前に入り口を石で塞ぐと魚が取り残されて、潮が引けば簡単に捕まえることができるわ」
実際に浜辺で石を積み、簡単な模型を作ってみせると、ドランが目を丸くする。
「網がなくても魚が獲れるのか!」
「ええ、潮の力を借りるの。毎日働いてくれる罠みたいなものよ」
彼の頬に久しぶりの笑みが浮かんだ。
リサナも小さく頷いた。
「これなら子どもたちも手伝えるわね。……失った日々は戻らないけれど、あの子たちが笑って魚を抱えられる日が来るなんて」
その目には確かな光が宿っていた。
◆
やがて、支援の場は小さな宴のようになった。
魚が焼かれ、粥が振る舞われ、潮風に混じって笑い声が広がっていく。
セムは焚き火のそばで言った。
「これからは、互いに支え合って進むんだ。ここも、もう自治区の仲間だからな」
その言葉に人々はうなずき、子どもたちは歌を口ずさみながら駆け回った。
リサナは焚き火の光の中で夫と顔を見合わせる。
「ここで……やり直せるのね」
「そうだ。俺たちは漁師だ。舟を作れば、きっとまた海に出られる」
彼の声は低く、それでいて揺るぎない決意を帯びていた。
◆
夜。
私は砂浜に立ち、寄せては返す波の音を聞いていた。
月明かりに照らされた海は静かで、村の焚き火がちらちらと揺れている。
――そのときだった。
崖の上で、何かが動いた。
闇の中にわずかな影が揺れる。
「……誰かいる」
シエルが耳を動かし、低く呟いた。
ダイチが剣に手をかけ、影を凝視する。
岩陰に数人の影が立ち、こちらを見下ろしていた。
攻めてはこない。ただ、遠巻きに監視している。
私は息を呑み、背筋に冷たいものを感じた。
――あれは……ネストリアの兵だろう。
◆
翌朝、セムとオルネス、ミレナに報告した。
「兵が攻め込まぬのは、まだ様子を窺っているからだろう」
オルネスの声は硬い。
「だがこれは、やがて圧力に変わる。砦の必要性はますます大きいな」
「……このまま放置するのは危険ね。ベルデ村に早急に報告して、警戒を強めてもらいましょう。砦の工事も一刻を争うわ」
私の言葉にセムがうなずき、すぐに伝令を出す準備を始めた。
村人たちの表情に、不安と緊張が広がった。
昨日までの喜びは消えない。だが同時に、避けがたい現実が迫っている。
◆
干物を吊るす子どもたちの笑い声。
家を直す大工の手。
漁に出る日を夢見て語り合う大人たち。
その全てを見守るように、崖の上にはなお、監視を続ける兵士の影があった。
――祝祭の温かさの裏で、潮風に紛れて嵐が忍び寄っている。
そう胸の奥で呟かずにはいられなかった。




