第71話 異世界で“祝勝の酒”と失われた鍛槌の重み
討伐の報せは瞬く間に鉱山都市オルディン全体へと広がった。
日暮れとともに広場に焚き火が焚かれ、樽酒が次々と開かれ、街は久しぶりに笑いと歌に包まれた。
坑道を脅かしてきた銀の魔物がついに倒れたのだ。その安堵は、どれほどの酒をもってしても尽きないほど大きかった。
私たちは、切り分けておいたミスリルリザードの肉を持ち込み、焚き火の上に鉄串を並べた。
脂が滴り、炎に落ちてぱちぱちと弾ける。香ばしい匂いが広場に広がると、ドワーフたちの歌声に混じってざわめきが生まれた。
「……まさか、本当に焼いているのか」
「魔物の肉を……食べるだと?」
彼らは眉をひそめ、距離を取ったまま信じられないものを見るような目で私たちを見ていた。
だが私は気にせず、焼き上がった肉を一切れ串から外し、そのまま口に運んだ。
噛むと、肉は驚くほど柔らかく、野趣あふれる旨味が舌に広がった。
「……美味しい! やっぱり処理をしっかりすればいい食材ね」
その言葉に、シエルも淡々と皿を取り出し、次の肉を切り分ける。
ためらいながら近づいてきた一人の若いドワーフが、恐る恐る声をかけた。
「……一口、試してみてもいいか?」
シエルは皮肉めいたにやけ顔を浮かべ、皿に肉を載せて差し出した。
皿を受け取った若者は喉を鳴らしつつ口に運び、噛んだ瞬間、目を見開いた。
「……柔らかい! 塩だけで旨いぞ!」
その声に広場がざわめき、周囲にいた者たちも次々と列に並び始めた。
最初は嫌悪していたはずのドワーフたちが、焚き火を囲んで肉を頬張り、驚きと喜びの声を上げる。
「信じられん……魔物の肉がこんなに旨いとは」
「これならスープにしても美味そうだ」
「干し肉にすれば保存食にできる!」
焚き火の輪は広がり、皿を手にしたドワーフの顔に次々と笑みが浮かんでいった。
――恐怖と嫌悪の対象が、今では祝勝のご馳走になっている。
◆
一方、鱗と骨を持ち帰った鍛冶師たちは、すでに火床の前で議論を交わしていた。
「鱗は薄いが、確かにミスリル質だ……」
「塊として扱うのではなく、この鱗の形を活かす? そんな発想はなかった」
「もし繋ぎ合わせれば、軽くて丈夫な鎧になるぞ。重い甲冑とは比べ物にならん」
忌避をにじませていた表情が、次第に職人の眼差しへと変わっていく。
私はその様子を見ながら思う。――恐怖が、利用価値を知った途端に受け入れへと変わる。
人の社会でも、昔から何度も繰り返されてきた現象だ。
◆
焚き火の周りでは、酒盛りの勢いも増していった。
樽を抱えた陽気なドワーフの女たちが私に杯を差し出し、肩に腕を回す。
「さあ飲め! お前も祝え!」
その瞬間、シエルとダイチが同時に前に飛び出した。
「だめだ! 真希に酒は飲ませちゃいけない!」
「絶対に! 命に関わる!」
「えっ……?」
私はぽかんと二人を見つめた。
何のことかよく分からない。ただ、シエルとダイチが真剣な顔で必死になっているのが、かえって不思議に思えた。
ドワーフ女性陣は腹を抱えて大笑いし、ますます杯を勧めようと群がってきた。
「酒を恐れるなんて、余計に飲ませたくなるじゃないか!」
「見てみたいわね、人間の酒癖ってやつを!」
一方、男性陣は顔を引きつらせ、囁き合っていた。
「……あの二人にしか止められない…頼む、止めてくれ!」
「また、とんでもないことになる前に退散するか……」
好奇心に目を輝かせる女たちと、なぜか怯えの色をにじませる男たち。
その奇妙な対比が、私にはただ不思議でしかなかった。
だが――この夜のやり取りが、後に思い出すだけで頭を抱えたくなる伏線だったのだと、当時の私は知る由もなかった。
◆
その喧騒から少し離れた場所で、名工グラムは一人静かに杯を傾けていた。
焚き火の赤い光が、包帯に覆われた右腕を浮かび上がらせる。
「鉱山が無事でよかった……」
低くつぶやく声は安堵を帯びていた。だがその言葉の奥に、大きな喪失感が潜んでいることを、隣に座るマルダには手に取るように分かった。
彼の瞳には炎の明るさは映らず、むしろ深い影が沈み込み、心を覆い隠していた。
私は少し離れた場所からその背を見つめ、大学で学んだ心理学の知識を思い出す。
――対象喪失。
長年築いてきた生きがいを失うと、人は心の空洞に飲み込まれる。
その虚無は、生きる意味さえ奪ってしまう。
(彼にとって鍛槌は命そのもの。だからこそ、今は生きながら命を失ったも同然なのだ)
私は近づき、静かに声をかけた。
「グラムさん。あなたの知識も技も、まだここに生きている」
彼は苦笑し、かすかに首を振った。
「知識や言葉では武器は打てん。鍛槌が振れねば……」
それ以上、私は踏み込まなかった。
喪失感に沈む者に、軽々しく慰めの言葉を投げてはいけないと知っていたからだ。
◆
そのとき、焚き火の近くで小さな騒ぎが起きた。
酔った若いドワーフが、魔物の肉を嫌がる老人に無理やり皿を押し付けていた。
「食えよ! せっかくの命を無駄にするな!」
「やめろ……わしは、そんなもの……!」
皿が倒れ、赤い肉汁が炎に滴って弾けた。
私は思わず声を張り上げた。
「やめなさい! 命は奪うだけじゃない。受け取る側にも覚悟がいるのよ!」
場が静まり返る。
若者は酒に濁った目で私を睨み、吐き捨てた。
「……やっぱり、エルフかぶれだ」
その言葉に私は息を呑んだ。だが同時に、胸の奥で閃きが走る。
(そうだ……エルフ。魔法と薬に詳しい彼らなら、グラムさんの腕を救えるかもしれない)
焚き火の明かりに照らされるグラムとマルダの背中を見つめながら、私は静かに決意を固めた。
――次は、エルフの知識を求めるときだ。




