第56話 異世界で田植えを終えて、新たな森へ踏み出した日
ベルデ村とフォルデン村に製鉄を託し、私たちは川沿いの拠点へ戻ってきた。
季節はもう初夏の手前。用水を引き込んだ田んぼは水面をきらきらと光らせ、風がさざ波を描いている。火と鉄に追われた日々から一転、ここには静かで穏やかな空気が流れていた。
「ようやく帰ってきたな」
ダイチが深呼吸をして肩の力を抜く。
「まずはお風呂でさっぱりしたいところだけど……」
シエルが笑い、
「今日は田植えが先ね」
私も笑い返した。
あぜを見て水量を調整し、苗代を確認する。若い稲はまだ細いけれど、根はしっかりしている。
「この苗が食べられるようになるのか……」
ダイチが苗を手に取り、感慨深げに言った。
「農業はすぐに成果が出ない。でも、確実に未来を支える」
そう答えたとき――木陰から軽やかな声が響いた。
「ちょうどいい時に戻ったようね」
現れたのはリゼリア、そして無口なエルグリフ、栗色の髪を揺らすイレーナ。
「田植えを手伝ってみたい」とリゼリア。
「泥遊びみたいで面白そうだし!」とイレーナが笑顔で手を振る。
作業はすぐに始まった。
足を泥に沈め、苗を摘んで植える。列を揃え、一本ずつ立たせる。
リゼリアは落ち着いた手つきで、迷いなく苗を並べていく。
「初めてじゃないみたいだね」
「精霊の畑で似たことをするの。泥はないけれど――大地に力を宿す作業は、人とあまり変わらない」
彼女は涼しい顔のまま答える。
一方、イレーナは泥に足を取られて何度もよろけ、そのたびにエルグリフが黙って腕を支えた。
「ありがとう!」とイレーナは無邪気に笑う。
エルグリフは小さく頷いただけで、また黙々と苗を植え始める。
そのやり取りを横目に、リゼリアは小さくため息をついた。
(……幼い子に甘すぎるのはどうかと思うけど。まあ、イレーナが楽しそうなら、それでいいか)
昼には田の半分が植わった。川魚の焼き物と山菜の汁物で簡単に食事をとる。
湯気の向こうでリゼリアが静かに言う。
「人は、こうして少しずつ暮らしを豊かにしていくのね」
「村人たちが鉄を使い始めた今、私たちは次の課題を探す番だよ」
私の言葉に、リゼリアは森の奥へ視線を投げた。
「もっと奥に行けば、古い鉱山や泉もある。油断はできないけど……道は、きっとある」
午後、最後の列を植え終えると、水面に碁盤の目のような緑の模様が浮かび上がった。
ダイチが満足げに泥の手を見下ろす。
「いい眺めだな」
「秋には黄金色の稲穂になる。ちゃんと刈り取りに戻ろう」
そう言うと、イレーナが「絶対また手伝う!」と手を挙げる。
片付けを終えると、私は腰に手を当てて宣言した。
「よし、次はお風呂に入ろう」
「賛成!」とシエルが即答する。
湯を張って火を焚けば、立ち上る湯気に、皆の頬が自然と緩んだ。
「やっぱりお風呂は必須ね」
「拠点には最初から用意すべきだったな」ダイチも笑った。
イレーナはぱっと手を挙げて提案する。
「今日は三人で一緒に入ろうよ!」
「えっ……!」
リゼリアが思わず声を上げ、隣のエルグリフも目を丸くする。
「イ、イレーナ……」
普段寡黙な彼が言葉を詰まらせ、リゼリアも赤くなって視線を逸らした。
そんな二人を見て、イレーナは不思議そうに首をかしげる。
「家族みたいなものなのに、どうして?」
場に妙な空気が漂い、私は思わず咳払いをした。
シエルが苦笑しつつ肩をすくめる。
「……まあ、こういうのは少しずつ慣れていくしかないわね。とにかく分かったわ。これから作る拠点には“お風呂”が必須条件。田んぼより先に設計に入れましょう」
皆の笑いが広がり、気まずさは湯気のように溶けていった。
夜、焚き火を囲んで次の計画を立てた。
「森の奥に入ろう。もっと広い土地を探す」
「狩り場も広がるな」ダイチが頷く。
シエルは軽口で締めくくった。
「危険も多いでしょうけど……お風呂だけは絶対忘れないこと」
リゼリアはしばらく黙って火を見つめていたが、やがて言った。
「困ったときは、森の精霊に話してみなさい。あなたたちが“作るため”に求めるなら、助けてくれるはず」
イレーナは笑顔で頷いた。
「じゃあ秋の稲刈りも、また呼んでね!またみんなで一緒に来よ!」
「……ああ」エルグリフが短く答えイレーナの頭を撫でる。
その様子を見て、リゼリアはそっと肩をすくめた。
明け方、エルフ三人は森へ帰っていった。
残された田んぼには、若い苗が一面に揺れている。
私は深く息を吸い、前を向いた。
「鉄は村に任せた。米はここで育つ。……次は私たちが森の奥で、新しい拠点を見つける番だ」
朝日を浴びて、私たちは新しい森へと歩みを進めた。




