第43話 異世界の村に帰るべき場所を見つけた日
通貨が流通し始めてから、フォルデン村の空気は目に見えて変わった。
木製の小さな硬貨——漆塗りで中央に**ルナリア信仰の象徴(ルナリアの紋章)**が彫られたそれは、最初こそ物珍しさから手に取られていたが、すぐに村人たちの暮らしに溶け込んでいった。
「今日は中貨二枚だから……干し肉と塩を」
「じゃあ、小貨四枚がお釣りだな」
市場でのやり取りは滑らかになり、物々交換のように「探し回る手間」が消えた。
家々にも少しずつ余裕が生まれ、食卓の品数は日に日に増えていく。
しかし、表向きの生活は変わらない。
税の取り立て日には、村人たちはわざと古びた服をまとい、暗い顔をして荷車を出す。
その裏で、蓄えられた富は静かに、確実に増えていった。
ある日、村の外れ。
数人の漁師が川辺で網を干しながら、硬貨を数えている。
その様子を、少し離れた林の中からじっと見つめる影があった。
ガルシアだ。
公務の視察ではなく、あくまで私的な偵察として村に足を踏み入れていた。
(……この文様、見覚えがある。ベルデ村の…女神の印、か)
以前ベルデ村で耳にした噂——“女神ルナリア”と呼ばれる存在。
その旗印を刻んだものが、税で苦しむはずの村を豊かにしている。
冷静沈着な彼の胸の奥に、不思議と温かいものが灯った。
ガルシアは硬貨をしばらく見つめたが、手に取ることはしなかった。
これは公務ではない——職務に私情を混ぜるべきではない。
このことは、自分だけの胸に秘めておこうと決めた。
(やはり会ってみたいな……その女神とやらに、もしかしてあの時の娘が?)
風が川面を渡り、漆塗りの硬貨が陽を反射してかすかに輝いた。
***
フォルデン村での通貨の流通が安定し、人々の暮らしが落ち着きを取り戻した頃——
リゼリア、エルグリフ、そしてイレーナは、ついにリンデールへ戻る決意を固めた。
「そろそろ……私たちも帰らなきゃ」
リゼリアがそう言うと、イレーナは少しだけ私の袖をつかんだ。
「真希……その前に、川辺の拠点に戻ってみたいな」
そうして私たちは川辺の拠点へ立ち寄ることにした。
到着すると、イレーナは興味津々で辺りを見回した。
少しの間放置してしまった水田は無事で、稲は順調に育っている。
魚捕獲用の罠も確認すると、生簀の出口を開けておいたため、魚が入った形跡はあったが、すべて川へ戻れたようだった。
風にそよぐ稲穂、川のせせらぎ、そして拠点の脇に組まれたかまどと湯船。
「これが……お風呂?」
私は笑ってうなずく。
「そう。体を温めて汚れを落とす場所。ちょうどお湯も沸いてるわよ」
イレーナの目が輝いた。
「ねえ、エルグリフ! 一緒に入ろう!」
その瞬間、リゼリアの表情がぴたりと固まる。
「……仲がよろしいことで」
「ち、違うっ!」エルグリフは両手を振り、必死に否定する。
イレーナは無邪気に首をかしげ、笑みを浮かべていた。
湯気が立ち上る湯船に、イレーナは頬を紅潮させて浸かっていた。
湯の温かさが全身を包み、肌をなでる柔らかさに、思わずため息が漏れる。
「はぁ……こんなに気持ちいいものがあったなんて!」
その声を聞きながら、私は横で桶を持って笑った。
これでまた一つ、この世界での“好きなこと”を彼女に教えられた気がした。
***
数日間の滞在を終え、いよいよリンデールへの帰路につく。
森を抜けると、懐かしいエルフの集落が見えてきた。
けれど、私たちを迎える空気は張り詰めていた。
中央広場に立つのは長老ティリオン。
白銀の髪が陽を受けて輝き、その瞳は真っ直ぐに私たちを射抜く。
「……イレーナを助けたそうだな」
低く落ち着いた声。その奥に熱を感じた。
「表向きは反対した。リンデールの安全を考えれば当然だ」
ティリオンは静かに言葉を続ける。
「だが、本心では——助けたかった。あの子は我らにとって宝だ。……それを成し遂げたお前たちに、私は恩義を感じている」
「真希。お前たちはこれまで、人間でありながら我らと心を通わせた。……初めに集落へ来た調査隊の者たちも、お前たちに心を開いている」
ティリオンは一呼吸置いてから、はっきりと言った。
「今後、真希、シエル、ダイチ——そしてお前たち三人は、リンデールとの往来を自由とする」
その言葉に、イレーナの顔がぱっと明るくなり、シエルとダイチも互いに笑い合った。
エルグリフは一瞬だけリゼリアを見たが、彼女はそっと視線を逸らした。
エルグリフは少し困ったような顔をしていたのを、私は見逃さなかった。
***
夜には歓迎の宴が開かれた。
焚き火の炎が夜空を照らし、果実酒の香りが甘く漂う。
笑い声と楽器の音が混ざり合い、長く冷え込んでいた集落に温もりが満ちていく。
果物を手にしたイレーナが笑顔でリゼリアに差し出す。
「はい、お姉ちゃん。エルグリフの分も持ってきたよ」
「ふふ……本当に仲がいいわね」リゼリアは柔らかく笑い、エルグリフへと渡す。
エルグリフは一瞬だけ躊躇してから受け取り、「あ、ありがとう」と短く返した。
その瞬間、イレーナとエルグリフの視線がわずかに交わる。
イレーナは口元に淡い笑みを浮かべ、軽く瞬きをする——まるで何かを確かめるように。
エルグリフは視線を逸らし、杯の中身を無理に口へ運んだ。
リゼリアはその様子に気づかず、焚き火越しに二人を見て微笑んでいる。
「エルグリフ、イレーナと一緒だと楽しそうね」
何気ない言葉だったが、その声音には小さな確信がにじんでいた。
エルグリフは返事を飲み込み、代わりに小さくうなずくだけ。
イレーナはその横顔をちらりと見て、何も言わずに果物を口へ運んだ。
そんな中、ティリオンが私の隣に腰を下ろした。
「……そなたがいたからこそ、あの子は戻れた」
短い言葉だったが、その重みは胸の奥に深く刻まれた。
炎に照らされる三人の笑顔を見ながら、私は思った。
——ここが、あの三人にとって本当の“帰るべき場所”なのだと。




