第33話 異世界に降った恵みと、森の奥の来訪者
朝から、空がどこか重たかった。
風はぬるく湿り、肌にまとわりつくような空気が漂っている。
「……雨、来るな」
川辺の拠点から見上げた灰色の空を見つめながら、私はぽつりと呟いた。
気圧の変化、風向き、空の色——天気予報アプリなんて無いけれど、五感と経験でわかるようになってきた。
「なんだか、空が怒ってるみたいだね」
シエルが木陰から顔を出し、不安そうに眉をひそめる。
「マキ、川が溢れるんじゃ……?」
「たぶん、前回より大きい雨になる。でも、大丈夫。対策はしてあるから」
私はうなずき、シエルとダイチにも応急処置の指示を出した。
生簀の周囲には石で堤防を積み、水田には水抜き用の溝を確保。
簡易の土嚢(といっても粘土と石を詰めた竹を編んで作った袋だけど)も、いくつか用意しておいた。
「大事なのは、水の“逃げ場”を作ることよ。逃げ場があれば、ダメージは抑えられるから」
「ふーん……水って、受け流すことが大事なんだね」
ダイチが妙に納得した顔で、堤を補強している。
夕方、ぽつりと大きな雫が肩に落ちた。
それを合図に、空の堰が切れたように激しい雨が降り始める。
それはまるで、空が怒りをぶつけてきたかのようだった。
* * *
夜。
小屋の屋根を叩く雨音は次第に轟音へ変わり、川の流れは猛獣の唸り声のように荒れ狂う。
外は暴風で枝葉が打ち付けられ、土の匂いが雨と共に流れ込んできた。
けれど、私たちは静かに火を囲んで座っていた。
テントだったら危なかったかもしれない。
少し頑丈な拠点として小屋を建てておいて、本当に良かった。
「……水田、流れてないかな」
シエルが心配そうに呟く。
「大丈夫。もしあそこが壊れるなら、もっと手前の排水口が先に壊れるようにしてあるから」
私は落ち着いた声で答えた。
「前にマキが言ってたやつか。『最悪の被害は、一番重要でない場所に押しつける』ってやつ」
ダイチが火を見つめながら思い出す。
「そう。“設計”の基本よ。どこを最後まで守るか——あとは、順番に犠牲にしていくだけ」
雷鳴が響く中、私たちは小屋の中で静かに夜を越した。
* * *
朝になって、ようやく雨が止んだ。
空はまだ湿っていたが、雲の切れ間から青空が覗き始めている。
あたりには霧が立ちこめ、濡れた葉からぽたぽたと雫が落ちる音が静かに響いていた。
「うわ……結構、水かさ増えてたんだな」
川は明らかに増水していて、生簀のすぐ近くまで水が迫っている。
けれど、肝心の生簀と水田は——無事だった。
「……残ってる」
私はほっと息をつく。
水門も耐えてくれた。竹で組んだ排水路もしっかり流れていた。
濁流に洗われた拠点は、まるで長く息を止めたあとに安堵の吐息をもらしたようだった。
「ほら見なさい。シエルの心配は取り越し苦労だったでしょ?」
「う、うるさい……マキだって心配そうにしてたじゃない!」
シエルがぷいと顔を背ける。
そのとき——
川の流れが少し穏やかな場所で、朝日を反射して何かがきらりと光った。
ダイチが指さしながら声をあげる。
「マキ、なんかきれいなもの拾った! 上流から流れてきたのかな?」
手に取ると、それはひんやりと冷たく、ずしりとした重みのある金属製の髪飾りだった。
細かな銀細工が絡み合い、中央には水色の宝石が埋め込まれている。
「すごくきれい……。この世界に来てから、こういう精巧な装飾品を見るのは初めてね。
上流に金属加工の技術がある集落でもあるのかしら」
そんな会話の最中——
——カサ……カサカサ……
湿った落ち葉を踏む微かな音が、森の奥から近づいてきた。
「……? 誰か、来る?」
シエルが耳をぴくりと動かす。
次の瞬間、木々の陰から数人の影がぬっと現れた。
全員が深いフードを被り、その動きは人間とはどこか違って見えた。
細く長い手足、緑と茶の入り混じった装束、背に負った弓や杖。
——そして、ちらりと覗いた耳が、長い。
「……エルフ?」
無意識に呟いた私の前に、シエルがさっと立ちふさがる。
ダイチも低く唸り声をあげた。
しかし、エルフの一団は武器を抜くこともなく、距離を取ったまま立ち止まった。
「——我々に敵意はない」
先頭の一人が、落ち着いた声で言う。
「数日前、この川に流された我が妹を探している。このあたりで……見なかったか?」
私は一瞬、息を飲んだ。
記憶の片隅に、大雨の中で川を何かが流れていくのを見た光景がよみがえる。
「……もしかしたら、下流に流されたのかもしれない」
「そうか……」
エルフの声には、落胆とも怒りともつかない複雑な感情が滲んでいた。
「お前たち、魔族か?」
「……正確には、私は人間。彼らは……ちょっと違うけど、敵じゃないわ」
その答えに、エルフの一人がじっと私を見つめる。
探るような視線。信じたい気持ちと、警戒心がせめぎ合うまなざし。
「……協力をお願いできるだろうか。我々はこのあたりには詳しくないので」
短く、静かなその一言に、私はうなずいた。
「もちろん。力になれることがあれば」
そのとき思い出したのは、ダイチが見つけたあの装飾品。
私はそれを差し出した。
エルフの目が、一瞬にして見開かれる。
「それは……イレーナのものだ!」
先頭のエルフが声を震わせる。
私は静かにうなずいた。
どうやら、ここから先——私たちの旅はまた、ひとつ新たな道へと踏み出すことになるらしい。




