第1話 電波が入らない場所が私にとっての異世界だったのだが…
静かだ。
虫の鳴き声すら遠ざかったこの山奥で、私は今日もひとり、火を見つめている。
「……よし、火力安定」
焚き火の炎が、石で囲った炉の中でちろちろと安定して揺れている。
湿度のある空気でもしっかり燃焼するよう、ナラの薪を使い、火床には炭を仕込んでおいた。
もちろん火打ち石での着火にも成功済み。ライターも持っているけれど、なるべく使わないようにしている。備えあればなんとやら、だ。
ちなみにこの山、携帯の電波は一切入らない。
それがいいのだ。
会社の人間からの鬼電も、どうせ「確認しておいて」とか「共有し忘れたけど急ぎで」とか、そういうやつ。
「……ああ、また仕事のこと考えてる。バカか私は」
自分の中でつぶやいてから、深呼吸。
森の空気が肺に入ってくる。土と草の匂いがする。癒される。
目の前では、猫のシエルが丸くなって寝ている。青い瞳は閉じられ、時折ピクリと耳が動くだけ。
犬のダイチはというと、口を開けて舌を出し、満足げに寝息を立てている。
このふたり――いや、二匹――は、最近よくキャンプ地に現れるようになった。
私の独り言を嫌な顔せず、文句も言わず黙って聞いてくれる。そういう存在は、貴重だ。
彼らと過ごす時間は、私にとって数少ない心の安らぎだった。
「……さて、そろそろ食事にするか」
私は二人のために、小分けにして用意しておいたフードを器に盛る。
シエルはゆっくりと起き上がり、ダイチはすでに尻尾を振りながら突進してきている。
「こら、落ち着け。こぼれるってば」
二人はそれぞれの器に顔を突っ込むようにして、うれしそうに食べ始めた。
……この姿を見るだけでも、ここまで来た甲斐があると思う。
食事を終えたころ、焚き火の炎がゆらりと揺れた。
その揺らぎが、妙に不自然だったのを私は見逃さなかった。
「……空気の流れ? でも風はない」
目を細めたそのとき、視界が歪んだ。
焚き火の炎がぐにゃりと曲がる。地面が柔らかくなったように沈み、私の足元が――落ちる。
「……え?」
重力が消えたような感覚の中で、私は声も出せなかった。
キャンプ椅子ごと、焚き火ごと、猫と犬と一緒に――世界の“下”に吸い込まれていく。
目を覚ましたとき、まず感じたのは――冷たい風。
次に、焦げた匂い。最後に、重たい音。
「う、……ん、なに、ここ……」
私は立ち上がり、周囲を見渡す。森?
でもさっきの山とは全然違う。木の形も違えば、空の色も微妙に違う。
そして、目の前には――
「……焚き火、まだついてる?」
あの時のまま、私が組んだ炉と火がそこにあった。
椅子も、テーブルも、荷物も、シエルも、ダイチもいる。
つまり、私のキャンプごと転移したということらしい。
「……異世界転生、か」
自分で口に出してみて、少し笑った。
まさかとは思うが、理屈は通っている。夢ではないなら、今は“非科学的現象”の渦中にあるということ。
意外と冷静で心は落ち着いている。
パニックなんて起こしてもどうにかなるものではない。
「とりあえず、火を守る」
焚き火に新しい薪をくべる。火の確保は生存の基本。
水は? ――近くに沢の音がする。水源あり。
食料は? ――リュックにあと2日分はある。
寝床は? ――テントがあるし、地面も平坦。
「ふむ、問題は……異世界の住民と接触する時のリスクか」
考えていると、後ろから「ニャ」と鳴き声。シエルが起きたらしい。
ダイチもつられて立ち上がる。……が、何かがおかしい。
「……ちょっと待て、あなたたち」
――しゃべっている。
しかも、立っている。
しかも――人型だ。
「え、ちょっと、どういうこと……」
シエルは耳がとがった美しい獣人の少女に、
ダイチは筋肉質な少年獣人に変わっていた。
「……やれやれ、予想はしていたが混乱は避けられないか」
シエルがため息をつく。
ダイチは「おなかすいた~!」と無邪気に笑う。
私の静かなソロキャンプ生活は、ここから――とんでもない方向へ転がり始めた。