第111話 異世界で“風の道しるべ”を越えた日
朝、風は澄んでいた。
ハルピュイアのライラが翼を広げ、ダイチの肩を確かめるように抱え直す。
「行くわよ。山風が上がる前に越える」
頷く。地が遠ざかる。草の匂いが薄まり、冷えた空の香りに変わる。
東の山麓で見た赤と黒の残滓が、瞼の裏にまだ揺れていた。
真希は村で休み、リリアナたちが見守っている。
俺は、俺にできることをする。
風が一気に強まった。ライラの翼が大きくはためき、体がふわりと浮く。地面が、あっという間に豆粒みたいに小さくなっていく。
「お、おい……こんな高く……!」
「怖いなら下見なきゃいいのに」
「無理だろ、こんな高さ!」
足元の森が霞み、山並みが層になって遠ざかる。
耳の中で風がうなり、心臓の鼓動と混ざって妙なリズムを刻んだ。
「オルディンまでは真西でいいのか?」
「えっと……たぶん、あの峰を越えた向こうだ。けど、上からじゃ目印が……!」
ライラは眉をひそめ、進路を微調整しながら滑空する。
下に広がる大地は緑と灰の模様ばかりで、森と岩の区別もつきにくい。
俺は震える手で指を伸ばし、山稜の向こうを指し示した。
「あっち! あの川の曲がりの先に、鉱山の煙が見える!」
「了解!」
翼がさらに大きく弧を描く。気流が変わり、体がぐらりと揺れる。
ライラの腕が僅かに緩み、俺の体が少し浮いた。反射的に彼女の腕にしがみつく。
「しっかり掴まって。落ちたら拾いに行くの面倒だから」
「……冗談に聞こえねえ!」
それでも――風は気持ちよかった。
下を見ると、朝霧の切れ間から陽光が川面を照らし、銀の筋が遠くまで続いている。
恐怖と同時に、胸の奥で何かが静かに燃える。
この空の高さを、きっと真希にも見せたい。
迷いの森を越えると、景色の陰影が変わった。
木々の密度が落ち、露出した岩肌が増える。
谷は風の通り道になり、上昇気流が翼を持ち上げる。
「ここ、風が跳ねる。少し上に取るわ」
「じゃあ、右手の肩――あの稜線に沿ってくれ。峠の向こうで川が分かれるはずだ」
「合図、早めに。空の目印は似てるの」
「わかってる」
日が一段上がり、霧がほどけていく。
尾根に沿って進むうち、遠くの色が銀から煤へと変わった。
「見えた……!」
稜線の向こうに、白い煙が立っていた。
風に折れながらも、太い幹のように真っ直ぐ上がる煙。
鍛冶の息――オルディンの灯だ。
「着地は任せて」
「いや、そこは任せるしかねえだろ……」
恐怖がまだ足に残っている。
けれど、胸の奥では別の熱が強まっていた。
――間に合う。間に合わせる。
翼が角度を変え、光が瞬いて流れる。
俺は息を整え、拳を握った。
風の向こうで、また火が待っている。
* * *
稜線を越えると、景色は銀と煤の世界に変わった。
露天の斜面には規則正しい棚が刻まれ、巻き上がる土煙が朝日を割る。
オルディン――ミスリルの鉱都は、前よりも明るかった。
あの“ミスリルリザード”討伐の後、坑口は増え、鉱架の滑車が一斉に鳴いた。
鍛冶場の煙突は太く、炉の息は深い。
街全体が、火を中心に脈打っている。
着地した途端、鼻の奥に“よい音”が走った。
炭の熱、叩き締めた金属の匂い、油に潜った革の香り。
鍛冶の町は音で挨拶をする。
俺の呼吸は自然に、その拍に合った。
「ベルデ村から帰ってきてたのか!」
俺が声を上げると、振り向いたエリンが手を振って駆け寄ってきた。
旅の塵を払ったばかりの彼は、以前より逞しい顔をしていた。
「温泉が気持ち良すぎてしばらくベルデ村に滞在してたが、本業をサボるわけにはいかないしな。……で、何かあったみたいだな」
「その話をしに来たんだ」
「なら、鍛冶場で聞こう。火の前の方が話しやすい」
鍛冶場通りを抜けると、中央工房の扉が開いた。
中は白い熱。炉の口が唸り、ふいごが鳴る。
最奥の台で、グラムがひとり、銀青の棒に見入っていた。
オリハルコン――真希が託した、異界の“極み”の金属。
彼はそれに熱を入れるでも、打ち込むでもなく、ただ目で測り、耳で聴いていた。
金属は叩く前から半分仕上がっている。
そう教えてくれたのが、この人だ。
「久しぶりだな、ダイチ。何があった?」
グラムはダイチの表情から、ただならぬ気配を感じ取った。
ゆっくりとオリハルコンを布で包み、こちらを見た。
俺は東の山麓の黒い地と“炎の影”、村のこと、真希の消耗と、魔石の挙動の変化――すべてを短く、具体に話した。
彼は一度も口を挟まず、最後に短くうなずく。
「ミスリルの防具だな。魔力の圧に、体を壊さぬための“器”が要る」
「頼む。できるだけ早く。できれば数を」
到底一人で太刀打ちできるレベルじゃない。
少なくとも五、六人分は必要になる。
「数、か。……叩いてから形にするのは日がいる。だが――」
その時、エリンが片手を上げた。
「“鱗”を使おう。あのミスリルリザードの。
鱗をそのまま張り付けたり編めば、一から作るより早い。
背甲の大きいやつは胸板に、小鱗は腕と腿まわり。
縁だけ薄く落として、軽い鉚で革へ留める。いける」
グラムの眉が、ほんのわずか動いた。
承認のしるしだ。
「やってみろ。鱗の重ね幅は十分に取れ。
隙間ができるとそこから壊れる」
「了解。……ダイチ、俺も手伝うよ」
「ありがとう! 助かるよ」
「右の副炉使って。鱗の焼き慣らしは俺が見る。
ミスリルは光の“澄み”を見逃すな! 鉄と違ってあまり赤くならないからな!」
身体が勝手に頷いていた。




