第109話 異世界で“炎の影と黒き山麓”を見た日
風の音が変わった。
森を抜けて東へ進むほどに、空気が重くなっていく。
湿っていた風が、いつの間にか乾いて喉を焼いた。
私は口を閉じ、呼吸を整えた。
焦げた匂いが鼻を刺す。昨夜の焚き火ではない。――もっと古く、地面そのものが焼かれたような匂い。
「鳥の声がしないな」
ダイチが低く言った。
たしかに、虫の羽音も、小動物の足音もない。音が少しずつ削られていくみたいだ。
頭上を旋回していたハルピュイアのライラが声を落とす。
「前方、風が渦を巻いてる。普通じゃない気流よ。気を抜かないで」
「気を抜く余裕なんて、最初からないわよ」
シエルが苦く笑った。尻尾は立ち、耳は後ろへ伏せられている。完全に“戦闘前”の姿だ。
リゼリアが周囲を見回した。
「森が終わるわ。ここから先は山麓帯。……魔力の流れが変。押し返されてる感じがする」
私は一歩、草の境を踏み越えた。
そこから先は、もう森ではなかった。
* * *
地面が、黒い。
土ではない。焼けたというより、固められている。
踏むとぱきりと音がして、細い亀裂が走った。まるで炭と石の中間のような質感。地表全体が炭化し、その上に私たちは立っていた。
「……これ、燃えた跡じゃないわね」
しゃがみこんで指を伸ばす。触れた瞬間、熱が指先を弾いた。火傷するほどではないが、確かに熱い。まるで、まだくすぶっているみたいに。
「地面が生きてるみたいだな」
ダイチが呟く。
私は頷いた。
「普通の火じゃない。高温が一点に長く留まった跡……自然の火事じゃ、こうはならない」
視線を上げる。
東の山肌はゆるやかに盛り上がり、黒い線が縫い目のように走っていた。岩が溶け、ガラスのように光っている。
「……火山帯?」
思わず口にしたが、すぐに否定した。
火山なら下から吹き上がるはず。だが、これは逆だ。上から叩きつけられたように焼けている。地面が殴られ、えぐられ、押し潰された場所だけが焦げていた。
――落とされた熱。
リリアナが小さく息をのむ。
「ここ……来たことがあります。前は草が生えてて、薬草も多くて……こんなふうじゃ、なかったのに」
彼女の声は震えていた。ここは、彼女たち獣人の生活圏の延長だった場所だ。
「進もう」
私は言った。
「ここで立ち止まる方が、逆に危ない」
全員が頷く。私はリリアナを、シエルはリゼリアを、それぞれカバーできる位置に置き、ライラは上空で風向と周囲を監視する。
向かい風が吹いてきた。……熱い。
おかしい。熱は普通、背後から押してくる。なのに、これは前からだ。まるで誰かが、こちらへ熱を押し出しているみたいに。
「熱源は目視できない。だけど風が逆流してる。“逃がさない”流れね」
ライラの声が低くなる。
逃がさない――その言葉に、背中を冷たい汗が伝った。
* * *
溶けた岩の帯が、急に現れた。
地面が液体になって固まったような光沢。黒の中に、赤い筋が脈のように走っている。
私は足を止め、見つめた。
「……動いてる?」
赤い筋が、微かに明滅している。規則性はなく、熱が移動しているようなゆらぎ。
ぴち、ぴち、と油がはねるような音。
「近づかないで」
私は手を伸ばして制した。
「魔石に似てる。魔力が高密度で滞留してる感じがする」
「でも魔物を解体した後でしか見つからないんじゃ……?」
リリアナが眉を寄せる。
「そう。でも、これは外にあふれてる」
地中から剥き出しになった魔力。自然現象ではない。叩き割られて流れ出た――そんな印象だ。
「赤い魔石……に近いけど、黒い筋が混じってる」
赤は火、熱、攻撃。だが混じる黒は――闇の因子。
私は手を伸ばしかけて、やめた。
その黒い筋だけは、はっきりと“拒絶”の気配を放っていた。熱でも冷たさでもない、ただ「ここはあなたの領域じゃない」と突き返す感触。
「……生きてるみたいだ」
ダイチが汗をにじませながら呟く。
「怒ってる何かの破片、って顔してるぞ」
言葉が終わるのと同時に――空気が低く鳴った。
ごう、と風が押し寄せ、灰が舞う。刺すような熱。反射的に腕で目をかばう。
「下がって!」
ライラの声が響いた。
地割れから、赤い光が吹き上がった。
火柱――いや、熱そのものだ。
濃密な熱が真上に伸び、触れた草を焼き、岩を溶かし、空気を悲鳴のように歪ませる。
その中に、いた。
四足。分厚い胴。地を押し砕くほどの巨体。
炎と熱の歪みの中に、獣の影。背に棘、尾は溶けた地面を引きずって糸のように垂れる。
リリアナが震える声で言った。
「……“炎の影”……」
その瞬間、影がこちらを向いた。
目があるわけではない。それでも、確かに“見られた”と感じた。
喉の奥が縮み、小動物の本能が叫ぶ。
シエルが前へ出て弓を構える。
「リリアナ、援護する! 動きが鈍い今なら――!」
「待って、まだ――!」
言い終える前に、矢が放たれた。
矢は熱の揺らぎに触れた瞬間、ぱん、と音を立てて消えた。
燃えたのでも、炭化でもない。形だけが奪われ、空気に溶けたみたいに。
「っ……なに、今の」
シエルの尻尾が硬直する。
影が、低く唸った。音ではなく、振動。骨に響く低周波が膝を軋ませる。
灰が舞い上がる中、私は反射的に叫んだ。
「下がって!」
守らなきゃ――その一念だけが、頭をよぎる。
次の瞬間、指先が勝手に光った。
意図していない。けれど放たれた魔力が空気を押し分け、目の前に半透明の膜を形づくった。
――今の、なに……?
直後、熱風がぶつかった。
膜全体が唸りを上げ、白いひびが走る。
焼けるような熱さではない。
それ以上に、圧が重い。
熱は不思議と感じないが、重力が数倍になったかのような重圧が襲いかかってきた。
リゼリアが短く息を整える。
足元の草がふわりと浮き、彼女の周囲に青白い気流が巻いた。
私の膜と風の盾が重なり、圧がわずかに逸れる。熱波が横を抜け、地表をさらに溶かしていった。
地面がじゅっ、と沈む。
「まだ来る! 第二波!」
ライラの警告。
炎の影が首を持ち上げ、赤黒い光を溜める。
あれを正面で受けたら終わる。
「散って! 正面に立たないで!」
私は叫び、全員が左右に走った。
リリアナが私の腕を引き、シエルがリゼリアを庇う。
ダイチは迷わず前へ出て囮役を買って出た。頼れる動きだった。
赤黒い閃光が地を薙ぐ。触れた地面が紙のように溶け、遅れて地鳴りが響いた。
「っぶな……!」
ダイチが転がって避ける。ほんの一呼吸遅れていたら、彼は消えていた。
私は理解した。
これはただの魔物じゃない。
――狩る意志がない。
――怒りだけがある。
縄張りを荒らされた番犬のような動き。
倒すべきじゃない。これは、何かを守ろうとして暴走している。
炎の影が再び身を丸め、熱を溜める。
その瞬間、視界が白く弾けた。
* * *
映像が流れ込んでくる。
目ではなく、胸の奥に直接。
夜。
山のふもとで、獣人たちが焚き火を囲む。
寒さをしのぐ小さな火。
その中心に、影がいた。
今の巨影と同じ姿――だが穏やかだった。
ふくらんだ腹に子どもが寄り添い、背の火花が焚き火を安定させる。
――これは、燃やすものじゃない。
――分け与えるもの。
守り神。もともと、ここはそういう場所だった。
映像が歪む。黒い筋が走る。
影の体に闇が入り込み、火が濁る。
柔らかな体温が、焼き尽くす熱に変わる。
子どもが泣き、風が逃げる。
炎の影は、やめたいのに、やめられない。
映像が途切れた。
* * *
「……あれは敵じゃない」
口が勝手に動いた。
「は?」
シエルが振り向く。
「攻撃、待って! あれは自分で止められなくなってる。もともと、守り神だった」
炎の影が動きを止める。
赤の奥で、確かに苦しんでいるように見えた。
リゼリアが息を呑む。
「真希、後退を。防壁がもたない――」
その時、影の喉奥から、空気が歪むような声が漏れた。
「……だ……れ……」
それだけ。
影は後方へ退き、熱が引いた。
赤い光は地割れに沈み、姿を消す。
残ったのは、黒い紋様だった。
地面に円状の線。中心から棘のような印が外へ伸びる。
ただの焼け跡ではない。意図的な“封じ”の形。
私は膝をつき、掌をかざした。触れない。まだ熱い。
けれどわかる。
これは魔力の焼き印。
誰かがこの地に“何か”を縛りつけた。
「……歪められたのね」
私は小さく呟いた。
リリアナが私を見る。
「つまり、“炎の影”は――」
「この場所を守ろうとしてた。今もそのつもり。でも、力が壊されて加減ができない」
ライラが低く息を吐いた。
「じゃあ、斬っても意味がないってことね」
「斬るんじゃない」
私は首を横に振る。
「助けるのよ。放っておけば、また麓の村に被害が及ぶ」
頭に浮かんだのはミナの顔。
焚き火の前で唇を結び、私たちを見送った、あの視線。
あの火は、絶やさないって約束した。
「帰ろう」
私は立ち上がった。
「一度村に戻って、準備する。このままでは何もできない」
誰も反対しなかった。
シエルが頷き、ダイチが剣を収め、リゼリアが風で熱を散らす。
ライラは上空から帰路を確保する。
私は最後にもう一度、黒い焼き印を見た。
円の中心に焼き付いた黒が、かすかに脈打っている。
怒りの脈ではない。――耐える脈。
それが本当に声だったのかはわからない。
でも、私は応えることにした。
「待ってて。必ず、もう一度来るから」
熱い風が、ほんの一瞬だけ止んだ。
それを合図のように、私たちは黒き山麓を後にした。




