第108話 異世界で“東の山麓”の影を追った日
夜が明けると、森の端に柔らかな風が流れ込んだ。
焦げた木々の間で、かすかな煙の筋が揺れていた。
それは、誰かがもう一度“生きよう”とした証のようだった。
焚き火の前で、私は手をかざした。
まだ温もりが残っている。
昨夜まで冷え切っていたこの村に、ようやく温もりが戻った。
「……あの方、目を覚ましました!」
リリアナの声に振り向くと、崩れた小屋の中から老猫人族の男がゆっくりと体を起こしていた。
昨日、命の灯を繋いだあの人だ。
まだ声はかすれていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。
「……風の匂いが……生きておる……」
その言葉を聞いたとき、私は小さく息をついた。
この村に再び“命の気配”が流れ始めている。
* * *
焚き火の煙が高く昇り始めた頃だった。
森の奥――黒ずんだ木々の陰から、気配が近づいてくる。
ダイチが耳を動かし、静かに剣の柄に手をかける。
「……何かいる。十体……いや、それ以上か?」
私は頷き、手を上げて皆に合図した。
やがて木の間から、薄汚れた衣をまとった猫人族たちが姿を現す。
彼らは焦げた村を見つめ、足を止めた。
その中に――リリアナが息を呑む。
「……父さん、母さん……!」
彼女は駆け出した。
年老いた猫人族の男性が片腕を吊っており、隣には火傷の痕を包帯で覆った女性が立っていた。
焼け跡を背景に、娘と両親が抱き合う。
泣き声も、言葉も、すべてが風に溶けていった。
「……よく、生きてたな」
「リリアナ……風が、お前を導いてくれたのね」
父ゲイルが、痛む腕を気にも留めず娘の頬を撫でる。
母マーヤは私たちを見て、表情をこわばらせた。
その瞳に浮かぶのは感謝ではなく、警戒――。
人間の姿をした私を、彼女はしばらく見つめたまま何も言わなかった。
私も言葉を探さなかった。
ただ、静かに頭を下げる。
「……あなたが、娘を助けてくれたのね」
「ええ。けれど、あの時助けたのは――彼女が、生きようとしたからです」
マーヤの眉がわずかに動く。
その一瞬の迷いを、リリアナが小さく手を握って止めた。
「母さん、この人たちは、敵じゃない。……みんなで、ここをもう一度立て直したいの」
その言葉に、マーヤはようやく目を伏せた。
だがそのやり取りの間――焚き火のそばにいたミナは、何も言わずに立ち上がっていた。
猫人族の大人たちの姿。
その中に、自分の両親の面影を重ねてしまったのだろう。
ミナは焚き火から少し離れ、森の縁に歩み寄る。
「ミナ……」
呼びかけると、彼女は振り返らずに立ち止まった。
風が吹き、煤けた髪が揺れる。
私は静かに歩み寄り、膝をついた。
「無理に仲良くしなくていいわ。心は、ゆっくり温めるものだから」
「……あたためる……?」
「火もいきなり近づいたら火傷しちゃうでしょ。だから、急がなくていいの」
ミナは目を瞬かせ、しばらく黙っていた。
やがて、そっと私の手を握った。
その指先はまだ冷たいけれど――震えてはいなかった。
* * *
昼を過ぎる頃、森の中から新たな声が響いた。
「――人が、戻ってきたぞ!」
数人の若い獣人たちが、丸太や木材を抱えて現れた。
森に隠れながら生き延びていた者たちだ。
リリアナが目を見開き、駆け寄る。
「あなたたち……無事だったのね!」
「リリアナ! 煙が見えて……まさかと思って来たんだ!」
若者のひとりが笑い、肩を叩く。
彼らの手は傷だらけで、足には泥がこびりついていた。
逃げ惑った夜を越え、それでも生きるために戻ってきたのだ。
「もう逃げない。俺たちで、ここを直そう」
その一言に、村の空気が変わった。
私は頷き、地面に枝で図を描く。
「なら、分担しましょう。狩猟班、資材班、防衛班、そして調査班。
この村を“生きる場所”に戻すために、みんなで動くの」
リリアナの父ゲイルがうなずく。
「指揮はお前がとれ。俺たちは力を出そう」
そう言って彼は片腕を押さえながらも、真っ直ぐに立った。
老猫人族の男がそれに倣い、火を囲む輪が広がる。
その中心で、ミナが火守の役を任された。
彼女は小さな両手で薪を組み、炎が消えないように風を読み取っていた。
誰に教わったわけでもない。ただ、彼女なりに“生きる火”を消さぬよう守ろうとしていた。
私はその背中を見つめながら、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
血のつながりなんてなくても――
守りたいと思う気持ちは、きっと同じだ。
* * *
日が傾く頃、ハルピュイアの影が空を横切った。
先行偵察に出ていたライラたちが戻ってきたのだ。
翼の間に赤い風を巻き込みながら、彼女は地上へ降り立つ。
「東の山麓で異変を見たわ。焦げた地面、燃え残った石、そして……赤い光。
風が逆流している。あれは自然の現象じゃない」
リゼリアが眉をひそめる。
「魔力の乱れ、ね……風の流れが歪むほどの」
「ええ。あの辺り、もとは火の守り神が棲んでいた場所です」
リリアナが答えた。
「でも、誰ももう近づかない。あの夜……“炎の影”が現れてから」
「炎の影……」
私は呟く。
老猫人族が言っていた言葉だ。
私は炎を見つめ、ゆっくりと立ち上がる。
「行こう。確かめる必要がある。
この異変が何なのかを知らなければ、また誰かが傷つく」
その言葉に、リリアナとリゼリアが頷いた。
ダイチとシエルもすぐに荷をまとめる。
出発の支度をしていると、焚き火のそばでミナが立ち上がった。
火を見つめながら、小さな声で言う。
「……かえってくる?」
私はしゃがみ込み、彼女の目線に合わせた。
「もちろん。火を守ってて。私たちが帰るまで、絶やさないで」
ミナは唇をきゅっと結び、こくりと頷いた。
その顔には、昨日までの影がもうなかった。
背を向けるとき、リリアナの母マーヤが声をかけた。
「……どうか、あの子を見守ってください」
私は振り返り、静かに微笑む。
「ええ。必ず」
* * *
夕暮れ。
村の火が遠ざかり、森の影が長く伸びる。
ハルピュイアたちが風を読み、私たちは東の山麓へと歩み出した。
背後では、ミナが焚き火の前に座っている。
炎が彼女の金の瞳に映り、まるで小さな太陽のように輝いていた。
――信じることは、血よりも強い絆になる。
そう胸の中で呟きながら、私は東の赤い空を見上げた。
遠く、山の頂にかすかな光が走る。
“炎の影”が、再び息づいている。
私たちはその光を追って、森の向こうへと歩き続けた。




