第107話 異世界で“獣人の村の記憶”を見た日
夜が明けて間もなく、朝の風が森の端を撫でていた。
夜露を吸った草が光を返し、鳥の声が霧を揺らす。
私は焚き火の跡に手をかざし、まだ温もりの残る灰を崩した。
その横で、小さな影が目をこすりながら起き上がる。
ミナだ。毛布の端を握ったまま、かすれた声で言った。
「……おはよう」
その言葉に、皆の手が止まった。
シエルが尻尾を揺らし、ダイチが目を細める。
リリアナは両手で口元を覆い、涙をこらえるように笑った。
「おはよう、ミナ」
私はそっと応えた。
声を取り戻した少女の一言は、朝の風よりも確かな温もりを持っていた。
空の上では、薄い羽音が聞こえた。
ハルピュイアの偵察隊が、夜明けと共に飛び立っていた。
彼女たちは翼をたたみながら高度を下げ、地形の変化を確かめている。
私たちは彼女らと合図を交わしながら、森の縁を東へと進んだ。
* * *
平原の草を踏み分け、森沿いを進む。
木々の間から漏れる光がまだ弱く、風は湿りを帯びている。
草の間には焦げた跡が点々と続いていた。黒く乾いた地面が、誰にも踏まれずに残っている。
「……狩場だったのね」
リゼリアが呟く。
枝葉に引っかかった骨、切り裂かれた土。獣の爪痕と、人の道具の跡が混じっていた。
リリアナが足を止め、膝をついた。
「森の風が変わってる……ここまで、焦げた匂いが残ってるなんて」
上空から羽音が降りてきた。
先行していたハルピュイアのひとり――ライラが旋回しながら降り立つ。
「この先に、焼けた集落が見える。煙はもう上がっていないけど、骨の数が多い」
その声は風と混じり、どこか哀しげだった。
私は頷き、リリアナを見る。
「……行こう。たぶん、そこが」
「――ええ。私の里です」
リリアナの声はかすかに震えていた。
* * *
昼を過ぎたころ、風が一段と冷たくなった。
木々の密度が増し、地面に影が落ちる。
そこに――あった。
崩れかけた木造の家々。
折れた見張り台。
樹上を繋いでいたはずの板橋は途切れ、縄が風に揺れている。
「ここが……」
リリアナの声は震えていた。
猫人族の里。
森と共に生き、風と共に狩る民の拠点。
高い枝の上から外を見張り、夜は木の根元で眠る――そんな生活の跡が、痛々しく散らばっていた。
リリアナはゆっくりと一軒の家へ近づく。
柱に触れる指が小刻みに震え、爪が木を掻いた。
「ここ、私の家です……」
言葉が途切れる。
床板の上には、焦げた布と、壊れた矢筒。
私は何も言わず、静かに背中を見守った。
リリアナは膝をつき、木の根元に手を当てた。
「風の導きよ……どうか、ここに還る魂を、迷わせないで」
それは、古い祈りの詩だった。
獣人の間に伝わる言葉。
“風は道を示し、命はその上を歩む”――彼らが風と共に生きてきた証。
そしてリリアナは、かすかに微笑みながら囁いた。
「この言葉を最後に口にしたのは……あの日でした」
リゼリアが目を細めた。
「この詩……エルフの古文にも似てるわ。たぶん、ずっと昔は同じ言葉だったのかもしれない」
リリアナはかすかに頷き、土に額をつけた。
ミナがそっと寄り添い、リリアナの腕に手を置く。
「……こわくない」
小さな声だった。
それだけで、リリアナの肩が震え、笑いがこぼれた。
「ありがとう、ミナ」
その瞬間、木々の間を風が抜けた。
葉が擦れ合い、森全体が答えるようにざわめく。
その上を、ハルピュイアたちの影が舞った。
空を渡る彼女らの羽ばたきが、まるで風そのもののように村を包み込む。
私はその音を聞きながら、胸の奥でひとつの決意を固めた。
* * *
夕方。
私たちは村の奥を調べていた。
崩れた倉庫の陰で、微かな息遣いを聞いたのはその時だった。
「誰か……いる?」
シエルが耳を立て、弓を構える。
私は手で制し、慎重に近づいた。
崩れた倉庫の陰。灰にまみれた爪が、地面を掴んだまま動かない。
そこには、毛並みの白い老猫人族が倒れていた。
呼吸は浅いが、まだ命の灯が残っている。
私は老猫人族の体を抱き起こし、浅い呼吸を確かめた。
胸の上下はわずかで、唇は乾いて色を失っている。
このままでは――間に合わない。
腰のポーチに指を伸ばす。
そこには、できるだけ使わずにいた白魔石。
迷いが胸をよぎった。
(……見られたくない。でも、助けなければ)
私は短く息を整え、掌に魔石を載せる。
意識を集中させ、体の奥――胸の内で静かに魔力を巡らせた。
光景を思い描く。温もりが流れ、命が戻る姿を。
次の瞬間、淡い白光がにじみ出た。
空気が震え、灰の匂いがかすかに和らいでいく。
光は老猫人族の体を包み、焦げた毛並みが徐々に色を取り戻した。
荒い呼吸が少しずつ整い、傷口からの血が止まっていく。
焼けただれた皮膚の下に、わずかな赤みが戻った。
リリアナが目を見張り、シエルが息を呑む。
リゼリアだけが、何も言わず静かに見守っていた。
そして頭上では、ハルピュイアたちが円を描きながら警戒を続けている。
やがて光が収まると、リリアナが言葉を失ったまま私を見つめた。
「……今の、何を……したんですか?」
ライラも翼を小さく揺らし、驚いたように息を呑む。
「光で、傷が……癒えた。そんな技、聞いたこともない」
私は短く息をつき、手の中の魔石を握り直した。
「魔法、と呼ばれる力です。
魔力を“形”にして、体の働きを助ける……そんな仕組みだと思ってください」
「魔法……?」リリアナが繰り返す。
「わたしたち獣人も魔力は持っています。でも、あんなふうに使えるなんて……」
「誰にでもできるわけじゃないみたいです」
私は微笑んだ。
「これは神の力じゃありません。道具と仕組みを理解して、使い方を覚えれば――ただの“技術”です」
リリアナはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……あなたの世界では、そんな“技術”があったのですね」
その声音には畏れと、どこか希望が混じっていた。
光が収まる頃、男の瞼がわずかに震えた。
「……おまえたちは……人間、か?」
「そう。でも、敵じゃない。あなたの仲間を探してる」
老猫人族はかすかに空を見上げた。
「……東の山麓……炎の影が、来た……あれが、すべてを焼いた……」
「炎の影?」
リゼリアが問う。
「空を焦がす吐息……赤い獣……魔力の気配が……強く……」
そこまで言うと、男の体が再び力を失った。
私は魔石を握りしめ、そっと手を離した。
まだ命の灯は消えていない――十分に回復の兆しがある。
空を見上げると、ライラが軽く翼を打ち、合図を送った。
「この上空は安全。森の外れに休める岩場を見つけたわ」
「助かります」
私は礼を返すと、老猫人族をそっと横たえた。
「安心して。あなたの里は、もう一度息を吹き返す」
* * *
夜、焚き火の炎が再び灯った。
壊れた家の前で、私たちは輪を作って座る。
ミナはリリアナの膝に抱かれながら、火を見つめていた。
近くの枝に、ハルピュイアたちが翼を畳んで休んでいる。
リリアナが小さく呟く。
「……風が戻ってきましたね」
「ええ。命の匂いも、少しずつ」
私は頷いた。
「この場所を、もう一度“生きる場所”にしましょう。
壊れたままではなく、ここに命の火を、絶やさずに――」
シエルが薪をくべ、ダイチがうなずいた。
リゼリアは夜空を仰いで言う。
「森は、命を拒んでいない。あなたたちの息を、また受け入れようとしてる」
リリアナは涙を拭い、微笑んだ。
ミナが彼女の胸に顔を埋め、「ここ、すき」と囁く。
私はその声に、静かに微笑みを返した。
壊れた村に、確かに“生きる音”が戻り始めていた。
焚き火の火が揺らめく。
その炎の奥、東の空に――
かすかな光の筋が、夜雲を裂くように走った。
「……また、影の灯」
リゼリアが呟く。
私は目を細め、遠くを見つめる。
「東の山麓――次は、そこね」
風が吹き抜け、炎が高く跳ねる。
リリアナの故郷の跡に、再生の息吹が宿っていた。
そして、夜明け前の光は再び、東を照らしていた。




