第106話 異世界で“失われた里”に声が戻った日
夜の平原――“影の平原”と呼ばれる地帯は、焚き火の赤だけが息づいていた。
難民の集落――骨組みと布で拵えた小屋の間を、冷たい風が抜けていく。子どもたちの泣き声はもう止み、眠りについた気配だけが残っていた。
私は焚き火の端で空を見上げる。星は薄く、風は乾いている。
膝の横では、煤だらけの猫の少女が丸くなって眠っていた。裾を小さな手で握りしめたまま、離そうとしない。
「眠れないの?」
リゼリアが、向かい側で湯を温めながら声を落とした。
「少しね。……どこに行っても、人間は嫌われてるなって、考えてた」
「“人間”が嫌われるのと、“あなた”が嫌われるのとは別問題よ」
焚き火越しに彼女はゆっくり微笑んだ。
「あなたは、目の前の手を離さない人だから」
私は返事をしなかった。ただ裾に触れる小さな指を見ていた。
言葉より先に伝わるものがある。たぶん、私たちはそれを長いあいだ忘れていただけだ。
いつの間にか、リリアナが隣に座っていた。火の光に金の瞳が揺れる。
「明日、故郷へ向かいます。ちゃんとこの目で見たいんです」
「一緒に行くわ」
それ以外の答えは、初めから用意していない。
彼女は小さく頷き、焚き火を見つめた。
背後で草を踏む、やわらかな気配が近づいた。
視線だけをそちらに向けると、獣人(犬の耳を持つ)の見張りが交代に来ていた。
私は立ち上がらず、小さく会釈する。
彼もそれに気づき、声を落として囁いた。
「守りたいものがあるうちは、大丈夫だ。……そういうもんだ」
私は膝の少女――名も知らぬその子の手に触れないよう、毛布の端をそっと直す。
見張りの背が闇に溶けると、夜はまた静かになった。少女の握る指が、ほんの少しだけ強くなる。
* * *
薄明の風が、布屋根の端を叩いた。
遠くで羽音がした。見上げれば、灰青の翼が朝の気流を切り裂いていく。
滅多に地上に降りないハルピュイア族――その二人が、私たちの焚き火に近づいてきた。
リゼリアが小声で呟く。
「……珍しいわね。彼ら、自分から地上に降りてくるなんて」
私は頷き、焚き火越しに声をかけた。
「ここまで来てくれて、ありがとう。危険はない?」
片方の青年が翼を畳み、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「人間が獣人の地に足を踏み入れるなんて、滅多にない。……それに、エルフまで一緒とは思わなかった」
視線がリゼリアに向けられる。
「風の民同士、争う理由はないが……ここでは珍しい光景だ」
リゼリアは穏やかに微笑んだ。
「心配しないで。私はこの人たちと同じ方向の風に乗ってるだけよ」
もう一人のハルピュイアが続ける。
「それに、あの子が一緒なら話は別だ。猫人族の子だろう? 彼らは“風を読む民”として、昔から俺たちと共存関係にある。
お前たちがあの子を守っているのなら、俺たちも手を貸してやる。」
私は裾をつまむ小さな手――猫の少女の寝顔に視線を落とす。
「彼女は……避難してきた子よ。今は私のそばが一番落ち着くらしいの」
青年は一瞬だけ目を細め、それから微かに笑った。
「猫人族が人間に懐くとは……風が変わったのかもしれないな。
私たちなら上空から周囲を見渡せる。風の流れも読める。……日の出までの間、空から見張っておく」
「助かる。無理はしないで、日の出までに戻ってきて」
二人は胸に翼を当て、軽く頭を下げた。
「わかった。合図は三度。危険の時は一度、長く」
そう言うと、彼らは翼を広げ、東の丘陵へと舞い上がった。
地上に残された風だけが、彼らの通った跡を知らせていた。
「荷は軽くしておけ。丘陵が続く」
ダイチが背負い紐を締め直すと、シエルがのびをして尻尾を揺らす。
出発の支度をしていると、裾に小さな重みを感じた。
見下ろせば、猫の少女が私を見上げている。昨夜と同じように、裾をつまんで離さない。
「……一緒に、行きたいの?」
少女は声を出さずに、こくりと頷いた。
私はリリアナと目を合わせ、彼女の表情から“同意”を受け取る。
「じゃあ、行こう。無理はしない。疲れたらすぐ止まるから」
「もう完全に真希の子供みたいね」
シエルが尻尾を揺らして笑った。
リゼリアは肩をすくめ、「人間が獣人族の子供を連れる光景、なかなか見ないわね」と茶化した。
私たちは集落の人々に別れを告げ、平原へ踏み出した。
ハルピュイアが空から翼を傾け、風の向きを合図してくれる。私は手を上げて返した。
歩き始めてしばらく、リリアナが隣で口を開く。
「昔、人間に……獣人たちはよく攫われたと聞いています。
何のためかは、誰も知らない。けれど、一度連れて行かれた者は二度と戻らなかった。
だから今でも、子どもを遠くへ行かせるときは“風に攫われるな”って言うんです。
本当は、人間に攫われることを意味しているのに」
私は息を吐く。
「……原因を知っている人間は、きっともうほとんどいない。
でも、理由がどうあれ、誰かを攫うなんて――あっていいはずがない」
リゼリアが静かに瞳を伏せる。
その仕草を、リリアナは気づかない。
――獣人たちは、エルフもまた同じように攫われていたことを知らないのだ。
短い沈黙ののち、リリアナは小さく続けた。
「……だから、確かめたいんです。私たちが失った“理由”を」
私は頷く。
「私も同じ。……だから私は、利用じゃなくて協力で関わりたい。
誰かのためじゃなく、隣に立てる理由がほしいの」
その言葉に、リリアナは静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
ダイチが先頭から戻ってきて、指さす。
「向こうに煙跡。けど新しくはない。火は落ちてる」
「寄っていこう。何か分かるかもしれない」
リリアナが頷き、私たちは丘を回り込む。
* * *
草に飲まれかけた小さな集落に、足を踏み入れた。
木壁は崩れ、屋根は落ち、井戸には枯葉が溜まっている。柱の黒い焦げ跡が、風に晒されて乾いていた。
「……人の気配は、ないね」
シエルが声を潜める。
「ここ、知ってるかもしれない」
リリアナが周囲を見渡し、首を振った。
「いえ、やっぱり違う。私の里じゃ……ない」
その時、裾を引く力がふっと消えた。
小さな影が、私の横から離れる。猫の少女――彼女は何も言わず、ふらふらとある家の跡へ歩いていく。
「ま、待って……!」
リリアナが思わず声を上げかけた。
私は手を伸ばして制し、首を横に振る。
「行かせてあげて。……彼女にしか、分からないことがある」
少女は倒れた梁の間に膝をつき、瓦礫をかき分けた。
やがて、掌に収まる小さな木の人形を見つける。割れて、角が欠けている。それでも、親の手の跡が残るような素朴な削り跡だった。
彼女の指が震え、人形を胸に抱きしめた。
肩が小刻みに揺れる。声は出ない。代わりに、堰が切れたみたいに涙だけが溢れた。
私は近づかない。
そっと距離を保ちながら、ただ見守る。
リリアナが隣に膝をつき、背を撫でる。シエルは唇を結び、ダイチは目を伏せた。
「……泣けるうちは、きっと大丈夫」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
しばらくして、彼女は顔を上げた。
濡れたまつ毛の奥で、金色の瞳がこちらを探す。
唇が、かすかに動いた。
「……ミナ」
風が止まった。
世界の輪郭が、彼女の小さな声で結ばれた気がした。
「ミナ、なの……」
リリアナが息を呑み、シエルが手の甲で目尻を拭う。
私はただ頷いた。
「うん。――会えて、よかったね」
ミナは人形を抱きしめたまま、よろよろと立ち上がる。
歩み寄ってきて、躊躇しながら私の手に指を触れた。私はその手を包む。
「……その名前、大切にしてね」
ミナが見上げる。
私は微笑んで続けた。
「私もね、親からもらった名前を大事にしてるの。
その名前を呼んでくれる人がいる限り、どこにいても“自分”でいられる気がするの」
ミナは瞬きをして、小さく頷いた。
指先が、もう一度私の掌をきゅっと握る。
その小さな力に、私はそっと力を返した。
遠くで、空気がわずかに揺れた。
振り返ると、山並みの方角に淡い光の筋が走る。稲妻みたいに激しくはない。夜の帳の縁を、静かに撫でる線。
「……あっち」
リリアナが囁く。
「私の村は、あの方角です」
風が戻る。草がさわり、と鳴る。
私はミナの手を握り、皆の顔を見渡した。
「今日はここで休もう。明日、山の方へ向かう。――行ける?」
ミナは人形と私の手を交互に見て、こくりと頷いた。
その頷きは、小さくて、でも確かな重みがあった。
夕焼けが消える頃、廃村の片隅で火を起こした。
鍋の湯が泡を立て、木の実の甘い匂いが満ちる。
ミナは火を怖がらなかった。炎の前で瞬きをして、ぽつりと呟く。
「……いただきます」
それは、泣き声の次に生まれた小さな言葉だった。
失われた家の前で、彼女は失くした声を取り戻した。
夜の空に、もう一度“影の灯”が走る。
光は短く、でもはっきりと東を指した。
焚き火の赤が、ミナの髪に反射して一瞬だけ金色に揺れる。
その光は東――夜の端に差す淡い光筋と、同じ方向を向いていた。
私はその色を目に焼きつける。
――明日、あの光の方へ行こう。
名前と取り戻した声と一緒に。




