第105話 異世界で“影の平原と最初の手がかり”を見た日
丘を下る風が、生ぬるく頬を撫でた。
迷いの森を抜けた朝は、驚くほど静かだった。
背後に広がる霧の海を振り返ると、白い波のように木々がたゆたっている。
その向こうへ戻ることは、もうできない。
けれど、前には――煙が見えた。
「……あの煙、焚き火の匂いがする」
ダイチが鼻を鳴らした。
「魔物の臭いじゃない。焦げた肉でもない。……人だ」
リリアナの耳がぴくりと動く。
「この方角……あのあたりに、避難している人たちがいるはずです。
故郷を失った者たちが、互いに助け合って暮らしていると聞きました」
私は頷いた。
「なら、行ってみましょう。話を聞かせてもらえるかもしれない」
リゼリアが慎重に言葉を挟む。
「……ただ、歓迎される保証はないわ。特に“人間”が一緒となれば」
「わかってる。でも、逃げてばかりじゃ前に進めないもの」
私は小さく笑い、荷紐を握り直した。
丘の草を踏む音が、風の中に溶けていく。
* * *
やがて、煙の源が見えてきた。
低い岩丘に沿って並ぶ、簡素な小屋と布の屋根。
崩れた家材を組み合わせた骨組みの間から、細い煙が立ちのぼる。
子どもの鳴き声と、鍋をかき回す音。
焚き火の周りには、猫人族の家族と犬人族の男たちがいた。
衣は擦り切れ、尾は細く弱々しい。
けれど、その瞳には確かな生の光が宿っていた。
「……まるで、避難所ね」
リゼリアが呟く。
私も同じ感想を抱いていた。
荒れ果てた平原の中で、かつての“暮らし”の息遣いだけが、まだ消えずに残っていた。
そのとき――。
私の足元に、小さな影が転がり込んできた。
煤だらけの顔、欠けた片耳。
人間で言うと七、八歳ほどの猫人族の少女だった。
驚いたように目を瞬かせたあと、すぐに体を縮こませる。
私はしゃがみ込み、手のひらを見せる。
道中で拾った木の実をそっと差し出した。
「……怖くないわ。食べる?」
返事はない。
けれど、少女の瞳がわずかに揺れ、ためらいがちに木の実へ手を伸ばした。
そして、ぱくりと口に入れる。
そのまま、私の膝の横に身を寄せてきた。
驚くほど軽い体。
私は言葉をかけず、そっと背中を支えた。
「……ちょっと待って」
少し離れた場所でシエルが目を瞬かせた。
「猫の子なら私かリリアナじゃなくって? なんで真希なの?」
ダイチが肩をすくめる。
「そりゃあ仕方ないさ。真希のほうが、シエルより安心感あるもんな」
「なっ……!? 安心感って何よ、それ!」
シエルの耳がぴんと立つ。
「私はちゃんと――」と言いかけて、口をつぐんだ。
私が小さく笑って首を振る。
「この子にはこの子のペースがあるの。それをちゃんと尊重してあげなくちゃ」
シエルは頬を膨らませたまま、ちらりと少女を見る。
その尻尾が、ほんの少しだけしゅんと下がった。
「……わかってるけど、なんか悔しいのよね」
ダイチがにやりと笑う。
「シエルはもうちょっとおしとやかにならないとな」
「はぁ!? 誰に向かって言ってるのよ!」
シエルが怒鳴りかけた、その瞬間――。
「止まれ!」
鋭い声が響いた。
若い猫人族の男が、弓を構えてこちらを睨んでいた。
金色の瞳に警戒の光が宿る。
シエルとダイチが反射的に構えかけたが、私は手を上げて制した。
「待って」
男は私の足元を見て、眉をひそめた。
私の膝に寄り添う猫の少女の姿に気づいたのだ。
弦を引く腕が、わずかに震えた。
「……人間、だと……?」
その呟きに、周囲がざわめく。
恐怖と警戒が一気に走った。
少女が怯えて私の服の裾を握る。
私は彼女を庇うように腕を広げた。
「待ってください!」
リリアナが前へ出た。
「この人は魔物に襲われた私を助けてくれたんです!」
青年がわずかに戸惑い、弓を下ろしかけたその時――。
「静かに」
リゼリアの声が鋭く響いた。
彼女の視線の先、岩陰から一人の老人が姿を現す。
灰色の毛並みに白が混じり、片目には古い傷跡。
杖を支えにしたその姿には、かつて戦士であった威厳が漂っていた。
集落の者たちが息をのむように道をあける。
「……名は?」
低い声が問う。
「真希といいます」
老人は頷き、杖を軽く地面に突いた。
「わしはラオ=フェルド。ここで避難民をまとめておる」
彼は私をまっすぐに見つめ、次いでリリアナへ目を移した。
「本当にこの人間に助けられたのか?」
「はい。あの森で、私の命を救ってくれました」
長い沈黙の後、ラオはゆっくりと頷いた。
「……不思議と子供も懐いている。無用な争いは避けるべきだ」
「ありがとうございます」
私は静かに頭を下げ、背の道具袋を地面に降ろした。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
膝のそばにいた少女が、私の服の端をそっと握った。
その小さな仕草が、周囲の警戒をさらにやわらげていった。
* * *
焚き火の周りに腰を下ろすと、煮た木の実の香りが鼻をくすぐった。
遠くでは鳥人族が荷網を降ろし、犬人族の若者たちが傷んだ屋根を修理している。
その合間を縫うように、猫の子どもたちが笑いながら駆け回っていた。
リリアナは同胞たちと再会を喜び合い、何度も抱きしめ合っている。
その様子を見ながら、私は小さく息を吐いた。
(……よかった。帰る場所が、まだ残っていた)
ふと、隣に座ったラオが口を開いた。
「お前たちは、迷いの森を抜けてきたのか?」
「ええ。風を頼りに、なんとか」
「ならば、お前らは“風の導き”を受けたのだろう。
あの森を抜けた人間など、数百年ぶりだ」
「……数百年」
リゼリアが小さく息を呑む。
(……やはり、あの森は古の結界ではなく、自然がつくった境界に近いのね)と、私は心の中で呟いた。
ラオは火の揺らめきを見つめたまま、静かに語り始めた。
「昔、帝国の者どもがこの地に来た。
エルフを、獣人を、魔物までも“利用価値”で量った。
力を持つ者は兵に、持たぬ者は奴隷に。
森を焼き、川を毒で濁らせ、いずれ自らも滅びた」
焚き火の火が、パチリと弾けた。
私は黙って聞いていた。
否定できるものではない。
たとえそれが自分の時代の出来事ではなくても――
人という種が刻んだ罪の一つであることに、変わりはなかった。
「……今でも人間は、私たちの敵だと思っている者が多い。
だが、お前を見ていると、少しだけ違う気がする」
「私は、人を代表して来たわけじゃありません。
ただ――人もあなたたちも、生きるために歩いている。それだけです」
ラオの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「……悪くない答えだな」
* * *
夕暮れ。
日が沈む頃、丘の向こうに赤い光が差した。
集落の子どもが空を指差す。
「ほら、まただ!」
見ると、地平の彼方――東の山脈の方角に、淡い光の筋が走った。
それは稲妻のように明るくもなく、炎のように赤くもない。
夜の帳が降りるたびに、地の底から滲むように現れては消えていく。
リリアナが息を呑む。
「……あの方角。あれは、私の村のあった場所です」
ラオが頷いた。
「我らは“影の灯”と呼んでいる。誰も近づかぬ土地だ。
夜になると、光が走る。
音もなく、風もない夜に、地が一瞬だけ光るのだ」
「光が……?」
私は空を見上げた。
風は止まり、遠くで草が波打つ音だけが聞こえる。
あの光が、何かを告げているような気がした。
リリアナが胸元の布袋を握る。
「……あの場所に、行かなくちゃ」
「危険だ。誰も戻ってこなかった土地だぞ」
「それでも――私の母が眠る場所だから」
その声には、迷いがなかった。
私は小さく頷いた。
「行こう。明日、明るいうちに出発しよう。
危険でも、確かめなければならないことがある」
焚き火がぱちりと弾け、赤い火の粉が夜空に散った。
その光が、膝のそばで眠る猫の少女の髪に反射して、一瞬だけ金色に輝く。
夜風が頬を刺すほど冷たくなった。
遠く、再び“光の筋”が走る。
まるで、私たちを呼んでいるかのように――。




