第104話 異世界で“迷いの森の声”を聞いた日
朝の霧が、森の輪郭を溶かしていた。
薄く差す光が川面を照らし、焚き火の残り火がかすかに赤を灯す。
ここは――エルフの集落リンデールと“迷いの森”の境にある、森の外れの平地。
一晩だけの野営地としては、静かすぎる場所だった。
「起きた? 朝ごはん、温め直すわよ」
シエルが火のそばで鍋をかき混ぜながら、軽く尾を揺らす。
湯気の向こうで、リゼリアが寝癖のついた金の髪を手ぐしで整えていた。
「朝霧が濃いわね。風の流れが、いつもと違う」
彼女の声はどこか落ち着かない。
私は湯を注ぎながら、手元の方位石を取り出した。
針は北を指している――ようで、わずかに揺れている。
その揺れは、やがて止まらずに小刻みに回りはじめた。
「……狂ってる?」
口の中で呟いた私の声に、リリアナがぴくりと耳を立てた。
「このあたりから、風が乱れるんです。獣人たちは“風紋の境”と呼びます」
「風紋の……境?」
「はい。境の向こうは、“迷いの森”と呼ばれています。
エルフも迷わずには抜けることができない場所です」
リリアナの声は静かだったが、尻尾の毛がわずかに逆立っているのが見えた。
その緊張に、私の胸もざわめいた。
午前。霧の濃さは増し、太陽の位置が見えなくなっていった。
森に足を踏み入れた瞬間、音が消えた。
鳥も虫も鳴かず、風の音さえも吸い込まれていく。
耳鳴りのような静寂の中で、私たちの息づかいだけがやけに大きく聞こえた。
「音が……遠のく?」
リゼリアが振り返る。確かに、背後の川音はもう聞こえない。
私たちはすでに、森の“外”を離れたのだ。
私は腰のポーチから白い布を取り出し、木の枝に結びつけた。
「帰り道を見失わないように、道しるべを残しておくわ」
一定の間隔で枝に布を結びながら進む。
しかし、数歩進んで振り返ると――布が霧に呑まれ、見えなくなっていた。
「……まるで、森のほうが私たちを隠してるみたいね」
シエルが呟いた。私は頷きながら、さらに慎重に進んだ。
そのとき――霧の奥で、何かが動いた。
地を這うような低い唸り。
それは獣ではなく、岩を擦るような重い音だった。
「止まって」
リリアナが囁き、全員の動きが凍る。
霧の向こうに、ゆらりと影が見えた。四つ足――いや、背に棘の列がある。
体高は人の倍ほど、足跡のたびに地面が沈む。
風が一瞬、そちらの方向へ流れた。
その瞬間、鼻を突く焦げた臭いが漂う。
……硫黄。
私は息を止めた。
「ベルデ村付近で倒していた魔物よりも、ずっと大きい……」
皮膚の下で脈打つような強力な魔力が、空気を震わせている。
まるで、森そのものがその存在を避けているようだった。
シエルが喉を鳴らした。
「こんなの、正面からやったら……一瞬で焼かれる」
「戦わない。静かに……息を殺して」
私は手で合図をし、全員で地を這うように姿勢を低くした。
魔物は霧の中をゆっくりと歩いていく。
その背から、赤黒い熱気が漂っていた。
間近にいながら、姿は霞の向こう――まるで幻のようだった。
風が向きを変えるたび、私たちは息を止めた。
……やがて。
魔物は森の奥へと消えていった。
その足音が完全に途絶えたとき、全員が一斉に息を吐く。
「……今の、なんだったの」
「リンデール付近でも、あのクラスの魔物は滅多に現れません」
リリアナの声には震えがあった。
私は頷いた。
「ここは……もう、常識が通じる森じゃない」
その言葉が、誰の胸にも重く沈んだ。
さらに進むと、風が突然、右から吹き抜けた。
けれど木々の枝は左へ揺れている。
方向が一致しない。まるで風そのものが嘘をついているようだった。
風紋樹――ねじれた幹と螺旋状の枝をもつ木々が密集し、上空は枝葉の網で覆われていた。
光が届かず、空が消える。
リゼリアの放つ風魔法は途中で霧散し、ダイチの足音も遅れて響いた。
「地形が歪んでるな。丘の斜面に入ったはずなのに、平らだ」
「風が乱れて、音も反射してる……」
リゼリアが耳を澄ませば、少し離れた自分の声が反響する。
前なのか後ろなのかもわからない。
私は方位石を再確認する。針は狂ったように回り続けていた。
「……コンパスは壊れたわけじゃないわ。この場所では、まともに機能しないの」
私は針を覆うように手をかざし、深く息を吐いた。
磁力でも魔力でも説明できない異常――それが、この森なのだ。
「ここでは森の声や匂いを手掛かりにしないと出られません」
リリアナは目を閉じ、耳を立て、鼻をひくつかせた。
「風が……右から抜けていく。こっちです」
「待って。本当にその方向で合ってるの?」
「信じてください。風は嘘をつきません」
真っ直ぐな瞳で見返されて、私は頷いた。
「分かった。案内をお願い。私たちはあなたに任せる」
シエルが肩をすくめる。
「さすがに狐の勘ってわけじゃないのね」
「猫さんよりは方向感覚があります」
「言ったわね」
二人の軽口が、霧の中の緊張を少しだけ和らげた。
やがて地面は柔らかく沈み、足元にぬめる感触が広がった。
無数の根が地表を這い、絡み合い、まるで巨大な蛇が眠っているようだった。
青白い光を放つ苔と“霧花”が点々と続き、わずかな光源となって道を縁取る。
風が一瞬止む。
次の瞬間、遠くの木々がゆっくりと向きを変えたように見えた。
――道そのものが、動いている?
「……戻ってる。さっき通った倒木だ」
ダイチが呟く。
確かに見覚えがある。
近くの木の根元には、私が刻んだ印――さっき確かに残したはずの道しるべがあった。
それを見た瞬間、背筋が冷たくなった。
私たちは、やはり同じ場所をぐるぐると回っている。
森のほうが、私たちを翻弄しているのだ。
私は息を整えた。焦ってはいけない。
「リリアナ。あなたの感覚を信じる。もう一度、風を感じて」
彼女は小さく頷き、地面に膝をついた。
耳を伏せ、尻尾をわずかに振る。
そして――ふいに立ち上がった。
「右前方、斜面の上。風が、少しだけ温かい」
「温かい?」
「草の匂いが混じっています。森の外の匂いです」
それは希望の匂いだった。
リリアナの導きで、一行は根の迷路を縫うように進み、岩壁の隙間を抜ける。
何度も霧に包まれ、何度も道を失いながら――それでも、歩みを止めなかった。
私はそのたびに、木肌に刻んだ印を指で確かめ、道しるべが消えていないことを祈った。
やがて、木々の間から光が強くなり――次の瞬間、霧が裂けた。
一歩踏み出した瞬間、世界の色が変わる。
目の前に、丘があった。
緩やかな斜面の上には金色の草原が広がり、風が自由に吹き抜けていく。
森の湿気が嘘のように消え、空は高く、青い。
「……抜けた、のね」
リゼリアが小さく息を吐く。
ダイチが肩を回しながら笑った。
「なんだか、体が軽くなった気がする」
シエルが振り返る。
背後の森は、まるで生きているように揺らめき、再び霧が閉じようとしていた。
そこはもう、引き返せない“境界”だった。
リリアナが丘の上に立ち、目を細めて遠くを見つめる。
「見てください……あれが、獣人の地です」
視線の先、丘の下には広大な草原と森が広がっていた。
点々と煙が上がり、生活の気配を感じる。
その向こうには、さらに高い山並みが連なっていた。
風が吹き、リリアナの髪が舞う。
「この先に、私の故郷があります」
「……あの山の向こう?」
「はい。小さな里ですが、あの方角です」
私は頷き、背後の森をもう一度振り返った。
霧の向こうで、何かが静かに息をしているように感じた。
――“理屈では抜けられない森”。
それでも、誰かを信じて進めば、道は開ける。
リリアナはしばらく丘の上で立ち尽くしていた。
風が頬を撫で、耳の先をくすぐる。
その目には、懐かしさと痛みと、わずかな希望が同時に宿っていた。
「……帰ってきたんですね、私」
その呟きは、風に溶けるほど小さかったが、誰よりも強く響いた。
シエルが小さく笑い、ダイチが頷く。
私はその背を見つめながら、そっと言葉をかけた。
「おかえり、リリアナ」
彼女は小さく振り返り、涙をこらえるように微笑んだ。
そして、静かに一歩を踏み出す。
その足音は、懐かしい土を確かめるように柔らかく――
やがて丘を下る風とともに、草の香りへと溶けていった。
背後の迷いの森が、遠くで低くうねるような風の音を立てた。
霧の奥、ゆらめく影が一瞬だけ丘を見送った気がした。




