第103話 異世界で“森を越えて語り合った”日
朝霧がほどけ、リンデールの森を薄い光が包んでいた。
集落の門前には、見送りのエルフたちが静かに並んでいる。
長老とエルグリフが一歩進み出て、旅装のリゼリアに言葉をかけた。
「森の守りは我らに任せよ。魔物の凶暴化はリンデールにとっても脅威である。原因を突き止めてきてくれ」
リゼリアは真っ直ぐに頷いた。
「はい。――イレーナのこと、お願い」
「心配するな。任せてくれ」
エルグリフはそう言い、わずかに微笑んだ。
私はその言葉に頭を下げ、腰の荷紐を締め直す。
「今回は、森を越えて獣人領の境まで。……無理はしない範囲で行くわ」
少し離れたところで、シエルがイレーナとエルグリフと談笑しながら荷物を背負い、リゼリアとこちらに向かってきた。
ダイチはすでに背負い紐を結び直し、リリアナのほうを振り向く。
「準備できたか?」
リリアナは胸元の小さな布袋――願い石の入った袋を押さえて頷いた。
「はい。……みんな、ありがとう。私の村を、もう一度見に行きたいんです」
彼女の瞳には不安よりも、確かめたいという意志の色があった。
私は頷いて応え、見送りのエルフたちに深く頭を下げる。
「この森の恵みに助けられたこと、感謝します。」
長老が静かに杖を地に打つと、門の蔓がほどけて開いた。
ひんやりとした朝の風が、霧の向こうから流れ込んでくる。
「行こう、リゼリア、リリアナ」
見送りの中で、リゼリアが最後に振り返り、静かに右手を上げた。
その背に、エルグリフとイレーナの姿が小さく見える。
妹が門の影から小さく手を振るのを見て、彼女の耳先がわずかに震えた。
「……行ってきます」
そのひと言は、ほとんど風に溶けるほど小さかった。
門をくぐり抜けた瞬間、森の空気が一段冷たくなる。
足元には夜露を吸った土の匂いが漂い、遠くで鳥の鳴く声がした。
木々の枝から光がこぼれ、霧の粒が淡く揺れる。
私は歩調を整えながら、仲間たちを振り返る。
シエル、ダイチ、リリアナ、リゼリア――その顔に、もう迷いはなかった。
淡い光の道へ、私たちは揃った歩幅で踏み出した。
* * *
朝の森は、動物たちの気配で賑やかだ。
枝葉から落ちる露、幹に走る蟻の列、遠くで木の実が転げる音。
私は足元と左右を見ながら、歩調をゆっくり保つ。
シエルとリリアナを自然に横並びに――そうなるよう、わざと少し前を歩いた。
最初の一刻は、ほとんど言葉がなかった。
靴の底と土の柔らかな音だけが、一定のリズムで続く。
やがて、そのリズムに混じって、シエルの声がふっと入った。
「ねえ、リリアナ。猫人族っていっても、尻尾の毛並みって結構違うんだね」
「え?」
「ほら、あんたのは根元がふわっとしてる。あたし、もっとまっすぐなのよ。しかも湿気に弱いのよ」
シエルが自分の尻尾を指で摘まみ、ぶんと揺らす。
リリアナはおずおずと自分の尻尾を見て、小さく笑った。
「……母に、“雨の日は梳かしすぎないほうがいい”って、教わりました」
「それ正解。梳きすぎると絡むんだよね。ね、真希?」
「え、私に振るの? 尻尾のメンテは専門外よ」
「じゃあ、髪の話でもいい」
「髪は寝ぐせと毎朝戦ってるわね。湿気の多い日は負け続け」
シエルがくすくす笑って、「真希の寝ぐせは魔物並みに厄介だもんね」と言う。
ダイチが「それは言えてる」と笑い、リリアナも小さく吹き出した。
そんな他愛もない会話が、リリアナの耳から少しずつ緊張を剥がしていく。
歩調がそろい、時折、彼女の靴音がシエルと重なって聞こえた。
小さな沢を渡る手前で、私は速度を落とした。
「リリアナ、ここの木の根は滑りやすいから、気をつけて。ロープを張るわ」
「……ありがとう」
私は幹にロープを回して結び、対岸へ軽く投げた。
ダイチが向こうで受け取り、しっかりと固定する。
ロープがぴんと張られたのを確認してから、全員で慎重に渡った。
渡り切ったところで、木漏れ日の差す平らな場所があった。
私は周囲を見回し、危険がないかを確認する。
「ここで少し休もう。水も汲めるし、風も通るわ」
荷物を降ろし、それぞれが腰を下ろす。
シエルは尻尾をゆらしながら、沢の水を手ですくって温度を確かめ、
「冷たっ」と笑っていた。
リリアナは濡れた手を振りながら、さっきより表情が柔らかい。
ダイチが焚き火の場所を整え、石を円に並べる。
私は赤い魔石を手にして、指先をかざし、静かに念じる。
淡い光が弾け、薪にふわりと火が灯った。
「猫人族の村では、どんな暮らしをしていたの?」
私が尋ねると、リリアナは少し考え込むようにしてから口を開いた。
「季節で違います。春は畑、夏は狩り場の見回り。
若い子は木の上の連絡役、年配の人は子どもの面倒と“話の守り役”。
犬人族は地面の道に強いから、交易の荷物は彼らが運ぶことが多いです。
……あ、鳥人族のハルピュイアが風の情報をくれる日もあります」
「鳥人族?」
私は思わず聞き返した。
「空を飛べるの?」
「はい。大きな翼を持っていて、森の上から風の流れや獣の動きを見るんです。
“風の変化は、森の呼吸だ”って、彼らはよく言っていました」
リゼリアが興味深そうに頷く。
「なるほど……地上とはまったく違う視点から見ているのね」
「ええ。私は、そういう話を聞くのが好きでした。
母は“よく聞きなさい”って、いつも言っていました」
母という言葉で、リリアナは一瞬だけ視線を落とした。
リゼリアが静かに微笑む。
「話を受け継ぐ文化、素敵だと思うわ」
その空気をやわらげるように、シエルがスプーンを掲げた。
「ベルデ村はどう? あそこも“話”が速いよね。井戸のまわりとか」
「情報伝達速度だけは鳥人族にも負けないかもね」と私。
「鍋と井戸のそばは、風より速いって言われてる」
シエルがくすくす笑う。
「真希、昨日も“鍋の警備”してたもんね」
「料理は外交手段よ。あ、ダイチ、スープおかわりしすぎ」
「えっ、俺まだ二杯半!」
「二杯半はもう“食べ過ぎ予備軍”よ」
「予備軍ならまだ食べすぎじゃないよな!」
笑いが、火と一緒に揺れる。
リリアナは椀を抱えたまま、それを見ていた。
その頬が、少しだけ和らいでいるのを見て、私は胸の奥でそっと息をついた。
焦らなくていい。
今は、ただ同じ歩幅で、同じ景色を見ていけばいい。
言葉も心も、少しずつ――火が育つみたいに、温めていけばいいんだ。
笑いが、火と一緒に揺れる。
リリアナは椀を抱えたまま、それを見ていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……倒した魔物は、いつも埋めていました。
腐ると、匂いがひどくて。皮も骨も硬くてどうすることもできなくて。
だから、遠くに穴を掘って、土をかぶせて。
“関わらないのがいちばん安全”って」
私は頷く。
「理にかなってる。危険を遠ざけるのは、生きるための知恵だよ」
「でも……それしか知らないと、他のやり方があるって、考えられなくて」
シエルが火ばさみで炭を寄せる。
「知識はどんな武器よりも強いってね、真希。」
私は腰袋から小さな包みを取り出した。
布をめくると、細身の銀色の刃が現れる。
「ドワーフが打ったミスリルのナイフ。薄くても粘る。
元の世界の刃物の形を、こっちの金属で再現してもらったの」
リリアナの瞳が、炎よりもわずかに大きくなる。
「……そんなに薄いのに、折れないんですか?」
「使い方を間違えなければね。
硬くても、繊維の流れに沿って刃を入れれば、驚くほど通ることがある。
“分け方”を知るってこと。無理やり壊すんじゃなくて、少しずつ“ほどく”」
シエルが頷く。
「真希、よく言うよね。“ほどく”って」
「力で押すより、筋道を見つけるほうが好きなの」
リリアナはしばらく刃を見つめ、それから願い石の袋に視線を落とした。
袋越しに、指が石の丸さを確かめる。
「……もし、あの夜、“ほどき方”を知っていたら。
誰かを守れたのかなって、思ってしまう」
火のはぜる音だけが、短く間をつないだ。
私はゆっくり息を吸い、吐いた。
「知っていても、守れない時はある。
でも、知っていれば、次に守れるものが増える」
リリアナは唇をかたく結び、そして小さく頷いた。
炎に照らされた横顔に、涙はなかった。
代わりに、薄いけれど確かな線が一本、心の中に引かれた気がした。
* * *
午後、森は少しずつ背を低くし、空が広くなる。
足元の土が乾き、風が草の匂いを増やした。
「この丘を越えたら、私の知っている地域に入ります。」
リリアナは指で遠くの稜線を示した。
そこには、細い狼煙台の影が点のように並んでいる。
「連絡台です。……まだ、残ってる」
「使える?」
「はい。火を上げれば、近くの見張りが気づいてくれると思います。
でも今日は、煙は少なめに」
彼女の言葉に、私は心の中で丸をつけた。
“用心深さ”は、今は何よりの味方だ。
夕刻、森の縁に腰を下ろして簡単な夜営を整える。
今夜は火を低く、鍋は使わず干し肉と木の実で済ませた。
代わりに湯だけ沸かし、温かい水で喉を潤す。
「……人間の旅は、よく食べますね」
リリアナが小声で言う。
ダイチが胸を張った。「食べるのは強さだ!」
シエルが笑って肩をすくめる。
笑いがひとしきり落ち着いたところで、リリアナが空を見上げた。
陽は沈み、月の輪郭が薄く浮かんでいる。
「母は、月に話しかける人でした。
“今日は誰と笑った?”って」
「今日は?」と私。
リリアナは少しだけ考えてから言った。
「……シエルと、笑いました。
真希とも、少し」
シエルが尻尾で彼女の膝をちょんと叩いた。
「もっと笑わせてあげるから」
「期待してます」
短いやり取りに、夜風がそっと混じる。
森の端は静かで、虫の声がよく通った。
やがて、焚き火を落とす時間が来た。
私は灰を均して、完全に熱が消えるのを待つ。
リリアナが、その様子を食い入るように見ていた。
「火の終わらせ方、知らなかった」
「始め方より、終わらせ方のほうが大事。
火も、旅も」
彼女は願い石の袋に手を当て、深く息をした。
「……明日、狼煙台の近くまで行けるはずです。
もし誰かが生き延びていたら、気づいてくれるはず」
「うん。あなたの歩幅で行こう」
星が増えていく。
遠く、草地の向こうに、獣人の領の黒い線が横たわっているように見えた。
私は寝袋に潜り込み、最後に一度だけ、皆の寝顔を確認する。
シエルは猫のように丸まり、ダイチは大の字、リリアナは仰向けで空を見ている。
その胸の上で、布袋が静かに上下する。
月明かりに、袋の縫い目が細く光った。
――歩いて、話して、食べて、眠る。
それだけのことが、どれほど難しくて、どれほど尊いか。
森の冷たい匂いの中で、私は目を閉じた。
明日は、境へ。
彼女の世界の、扉の前まで。




