第99話 異世界で“山を掘ったら温泉が出た”日
朝の広場で、泥だらけの小柄な影が駆けてきた。黒い髪に赤い布を巻いたドワーフの弟子、エリンだ。手には小さな礫石を抱え、息を弾ませている。
「真希さん! 来てください、早く!」
声はどこか嬉々としているのに、どこか緊張も混じっていた。私は立ち上がり、仲間を連れてベルデ村近くの山へ向かった。同行はシエル、ダイチ、サーシャ、ヨラム。好奇心とわずかな不安が入り混じる行進だった。
現場は小さな採掘坑。斜面には簡易の支柱と縄、鉱石籠を引くための滑車が組まれている。岩の割れ目から、金属のような光が点々と覗いていた。
「見てください! 見てください! 光ってます、真希さん!」
エリンは土まみれの顔で叫び、手にした石を掲げる。淡い銅色、銀白の煌めき、そしてところどころに小さな金色の点――鉱脈だ。人々の目が輝く。
「銅に錫、銀も混ざってます! うまくいけば……真希さんの道具に使える合金が作れるかもしれません!」
エリンの声は弾んでいる。若さと希望の熱がそのまま言葉になっていた。
私は膝をついて岩肌を覗き込む。微かな結晶と、ところどころ黒ずんだ鉱染が見える。ヨラムが眉を寄せて言った。
「これは鉄じゃねえな……金属が混じってる。だが、どうにも嫌な臭いがする」
彼の言葉の直後だった。
エリンが再びツルハシを振り下ろした瞬間、岩の奥から白い蒸気がふわりと吹き上がり、頬を撫でた。温かく湿った空気が肌に張り付き、次の瞬間――鼻を刺すような刺激臭が立ちこめる。
「うっ……な、なんだこの匂い……!」
サーシャが顔をしかめ、ヨラムが咄嗟に叫ぶ。
「下がれ! 息をするな! これは危ねえ、ただの湯気じゃねえ!」
私はすぐに蒸気の流れを見極めた。
――鼻の奥に残る刺激、目に染みる臭気。間違いない、硫化水素だ。地熱とともに有毒ガスが噴き出している。
「全員、風上へ下がって! 布で口を覆って、浅く呼吸して!」
私は声を張り、皆に指示を出す。エリンも我に返り、慌てて後ずさった。
湯気の奥、岩肌には黄みがかった粉のような粒がうっすらと付着している。私はそれを見て、確信した。
「……やっぱり。これ、“イオウ”ね」
「イオウ……?」
ヨラムが眉をひそめる。私は小さく頷いた。
「火や熱でできる鉱物の一種よ。この匂いの正体は、このイオウから出るガス――“硫化水素”なの。吸いすぎると命に関わる。だから、しばらくここは立ち入り禁止にしましょう」
エリンが目を丸くし、声を震わせる。
「こんな小さな穴から、命に関わるガスが……」
「ええ。でも同時に、イオウは貴重な資源でもある。慎重に扱えば、道具づくりや薬の原料として役立つかもしれないわ」
私は膝をつき、指先で黄色い粉を摘んだ。陽の光を受けて、細かな粒が鈍く光る。
「まずは風を通して濃度を下げましょう。通気が安定するまで誰も坑内に入らないように」
ヨラムは渋い顔をしながらも頷いた。
「……お前さんが言うなら、そうしよう。俺らの知らねえ世界の話だ」
エリンはしばらく黙って岩肌を見つめていた。
その瞳には、期待の火がまだ消えずに揺れている。
「せっかく見つけたのに……掘れないなんて、悔しいです」
小さく絞り出すような声。
手のひらには、先ほど拾った鉱石の欠片が乗っている。
「光ってるのに、手が届かないって、こんな気持ちなんですね」
私はそっと彼の肩に手を置いた。
「それでも、見つけたのはあなたよ。危険を見抜けたからこそ、次に進める。鉱脈は逃げないわ。人の命を守れる鍛冶師になりなさい」
エリンは驚いたようにこちらを見て、そしてゆっくり頷いた。
「……はい。次は、掘っても大丈夫な場所を探してみせます」
その目に、悔しさの奥に新しい光が宿るのを、私は確かに見た。
***
昼下がり、坑口には簡易の囲いを作り、蒸気が抜けるように溝を掘った。ヨラムは湿らせた布を鼻に当てながら見張りを続け、サーシャは子どもたちが近づかないように声をかける。
私は風向きと気温を記録し、蒸気が弱まるのを確認した。
「これならひとまず大丈夫ね。あとは地中の圧を逃がして安定させましょう」
夕暮れが近づく頃、湯気はやや落ち着きを見せた。岩の割れ目から流れ出た水を試しに触ってみると、ほんのり温かい。
「……温泉?」
思わず口に出すと、エリンが驚いたように振り向いた。
「これが、温かい水……? 本当に地の底から?」
「ええ。地熱で温められた地下水が、鉱脈を通って湧き出しているの。さっきのイオウが混じっているから匂いが独特だけど、うまく冷ませば体を温めるのに使えるかも」
その夜、村では早くも噂が広まった。
「山から温かい水が出たらしい」「神の恵みじゃないか」
人々は好奇心に駆られ、焚き火の灯りを手に現場へ向かおうとした。私たちは急いで見張りを立て、簡易の柵を作って立ち入りを禁じた。
***
翌朝。
私は水を採取して簡易分析を行った。わずかにイオウの成分を含む典型的な硫黄泉――つまり、天然の温泉だ。
「すごい……!」
エリンが目を輝かせる。
「真希さん、ここでイオウを採ることもできるんですか?」
「可能性はあるわ。でも採掘と処理は別物。安全を確保してからね。今はまず、温泉として利用できるように整備しましょう」
ヨラムがうなずく。
「村の者たちも疲れてる。湯に浸かれば、きっと喜ぶ」
昼には、湯の一部を遠巻きに引き、岩陰に簡単な浴槽を作った。湯温は六十度前後、湯気は柔らかく、イオウの匂いも弱まっている。老若男女が交代で手足を浸し、疲れを癒していた。
「これは……恵みだわ」
サーシャが静かに呟く。その声は、湯気に溶けるように柔らかかった。
「湯加減、ちょうどいいな」
ダイチは岩に腰をかけ、手を湯に浸して目を細める。
「……人って、こういうときに生きてるって感じるんだな」
その隣でシエルがくすりと笑った。
「“お風呂は体だけじゃなく、心まで温める最高の贅沢なんだから”って、前にも言ってたでしょ?」
「……覚えてたのね」
私は照れくさく笑い、肩まで湯気に沈めた。
「でも、たしかにそうかも。ここまで来たら、もうこの温もりは手放せないわね」
シエルは満足そうに笑い、湯の表面を軽く撫でた。
「ふふ、こうして笑ってられるなら、贅沢でもなんでもいいわね」
そのとき、近くで何かが「きゃん」と鳴いた。
煙る岩の縁に小さな犬が顔を出し、前足を湯に突っ込んで飛びのく。
「あっつ! ちょっと、ビックリさせないでよ!」
シエルが思わず叫び、周囲がどっと笑いに包まれた。
その笑いは、長い疲労を溶かすように静かな夜気に広がっていった。
***
夜。
満月が湯面に映り、湯気が銀色に光る。
人々は湯の縁に腰掛け、静かに笑い合っていた。
「これを“女神の恵み”って言いたくなる気持ち、わかるわ」
サーシャが耳元で囁く。
私は視線を逸らし、苦笑した。
「私が女神ならいいんだけどね。でも、これは偶然と人の働きと、ちょっとした運が混ざっただけよ」
エリンがにっこり笑って言う。
「名前つけてもいいですか?」
「いいけど、“女神の湯”だけは却下ね」
シエルが吹き出し、ダイチが腹を抱えて笑う。
夜の湯煙は、笑い声を包み込みながら、星空へと溶けていった。
――山がもたらしたのは、鉱脈と湯、そしてささやかな笑顔だった。
人の暮らしは、今日もまた一歩、温もりを増していく。




