第2話「シャールとセフィラ②」
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王国暦五百二十五年。シャールとセフィラは、共に十三の歳を迎えていた。
王宮庭園の片隅に設えられた古い石造りのベンチは依然として二人にとって不可侵の領域であったが、彼らの関係性はより深化した次元へと移行しつつあった。
王太子と公爵令嬢という、生まれながらにして課せられた公的な役割。その重圧は年を追うごとに増していたが、二人で過ごす時間だけがその精神的な桎梏から彼らを解放する唯一の機会だったのである。
ある日の午後、二人の姿は王宮の書庫ではなく、エルデ公爵家の広大な書斎にあった。王家のそれが国家の威信を示すためのものであるとすれば、公爵家の書斎はより純粋な学術的探求の府としての性格を帯びており、稀覯な専門書が壁一面の書架を整然と埋め尽くす光景は、それ自体が知的な圧を放っていた。
この日、シャールが公爵邸を訪れたのは極めて珍しい古代の魔導書がエルデ家にもたらされたとの報に接したからに他ならない。
セフィラは重厚な革装丁の古文書を机上に広げ、その難解な頁を一心に読み解いていた。
「この一節……古代語の文法構造が現代のものと著しく異なり、その真意を把握しかねています」
細い指先で羊皮紙の文字列をなぞりながら、彼女は沈吟する。シャールもまた隣から身を乗り出し、その不可解な文章を覗き込んだ。騎士譚の知識こそあれ、このような高度な専門文献を解読する能力を彼は持ち合わせていない。しかし、婚約者が何に没頭しているのかを知りたいという純粋な知的好奇心が彼を駆り立てたのである。
「どうやら、魔力の本質に直接干渉する技術体系についての記述のようですけれど……」
しばらく黙考した後、セフィラはふと顔を上げた。その翠色の瞳に、悪戯心とも探求心ともつかぬ光が宿る。
「殿下。この理論を、実践してみてもよろしいでしょうか」
「実践、だと?」
シャールの問いに、セフィラは頷いた。
「ええ。この書によれば、特定の呪文や触媒に依存せずとも、純粋な精神集中によって物理現象に干渉しうると……。まず、対象物を構成する最小単位の粒子を意識下に置くことから始める、とあります」
それは、四大属性を魔法の根幹とする現代の魔導学体系そのものに対する、根源的な挑戦とも言える思想であった。セフィラは机上の羽根ペンに視線を定めると、ゆっくりと深呼吸をし、精神を一点に収束させていく。
数秒の静寂。その後に現出した光景は、シャールの既成概念を根底から覆すに足るものであった。
机上の羽根ペンが微かに震え、まるで見えざる糸に引かれるかの如く、緩やかに宙空へと浮上したのである。詠唱もなければ魔法陣もない。ただ、セフィラの純粋な意志の力だけがそこに奇跡という名の物理法則の改変を現出させていた。
「……すごい」
シャールの口から、ほとんど無意識に感嘆の言葉が漏れた。羽根ペンは不安定に揺れながらも、数センチほど浮上した状態で静止している。やがてセフィラの集中が途切れたか、ペンは音もなく机上へと落下した。
「……はぁ。やはり、容易なことではありませんわね」
額に汗を浮かべ、セフィラは小さく息をつく。
「だが、今の現象は……属性魔法とは明らかに異質だ。まさか──無の魔力か?」
「断定はできません。ただ、もしこれが無の魔力だとするならば、これまで魔法を発現できぬ証とされてきた、無の魔力の本来の姿なのかもしれませんわ」
その言葉は示唆に富んでいた。エルデ公爵家は水の魔力の血統である。とすれば、今セフィラが示した力は──。
これは一種の試しでもある。公爵家の者が、将来の王妃が無の魔力を扱うなどという事は、王国ではあってはならないのだ。
セフィラの喉が、我知らずごくりと鳴った。だがシャールが返した言葉はこうだ。
「……私も、試すことを許可願えるだろうか」
シャールの申し出にセフィラはわずかに驚きつつも、すぐに微笑んで頷いた。それは自身もまた運命共同体であると表明したに等しい。
「もちろんですわ、殿下。まずは、より質量の小さいもので試されてはいかがでしょう。例えば、この砂時計の砂粒などで」
セフィラの助言に従い、シャールは机上の小さな砂時計に意識を集中させる。精神を極限まで研ぎ澄ませたその時、砂時計の内部で再び不可解な現象が始まった。
落下すべき砂粒が重力に逆らってガラスの内壁を螺旋状に駆け上がり始めたのである。セフィラが息を呑むのがわかった。シャールはさらに集中力を高め、砂粒の集合体に、より複雑な運動を賦与しようと試みる。しかしそれが彼の限界であった。大きく息をつくと同時に砂は統制を失い、さらさらと音を立てて底へと崩れ落ちていく。
「……殿下にも、この力が……」
セフィラの声には、驚愕と、そしてそれ以上の喜びが満ちていた。
「この件は誰にも口外してはならぬ」
シャールの静かな、しかし有無を言わさぬ口調にセフィラもまた深く頷いた。
「はい」
理由は改めて説明するまでもない。
およそ既存の権威とは、自らの理解を超えた事象に対してまずもって警戒と排斥を以て応えるものである。四大属性のヒエラルキーが絶対とされるこの世界において、彼らの発見した事実が旧体制からの異端として断罪される危険性は決して低くはなかった。
二人は密やかに視線を交わす。それは世界でただ二人だけの秘密を共有した、共犯者のそれであった。
この日を境に、二人は密かにこの未知の力の鍛錬を開始した。それは後に『念動』あるいは『純粋魔力操作』と分類されることになる、魔法史における一大転換点の萌芽であったが、当の本人たちにとってはただ二人だけの秘密の遊戯に過ぎなかったのかもしれない。
そうして鍛錬を重ねるうち、二人の力の特性の違いが明確になっていく。シャールは砂粒で剣を象ったり、水滴で空中に文字を描いたりといった、微細な対象を精密に操作することに長けていた。
対してセフィラは書物や椅子といった、より大きな物体を動かす強大なエネルギー制御の才を示した。繊細な技巧のシャールと、強大な力のセフィラ。特性こそ違いはあれど、同種の力であることは疑いようもない。
秘密の共有は必然的に二人の精神的距離をより密接なものとした。それは友情や信頼という言葉だけではもはや表現しえぬ、より深く、そして甘やかな色合いを帯びた感情へと昇華しつつあった。
穏やかな陽光が差し込むエルデ公爵家の書斎。
大きなソファに隣り合って座り、それぞれ別の書物を開く二人。しかし彼らの意識は、もはや書物の文字だけには向けられていなかった。頁をめくる音、隣に感じる体温、微かな呼吸の響き。それらが織りなす静謐な空間そのものが二人にとって何物にも代えがたいものとなっていたのである。
ふと、シャールは読んでいた本から顔を上げた。視線の先には、書物に没頭するセフィラの横顔。光を受けて輝く亜麻色の髪、知性の光を宿す翠色の瞳。その姿にシャールの心臓が強く脈打った。
どれほどの時間そうしていたであろうか。不意に顔を上げたセフィラと、シャールの視線が至近距離で交錯する。セフィラの瞳の中にシャールは自分自身の、そしてシャールの瞳の中にセフィラもまた自身の隠しきれない熱情の光を見た。
もはやいかなる言葉も不要。
どちらからともなく、二人の顔がゆっくりと近づいていく。それは磁石が引き合うかのような抗いがたい物理法則に従った運動であった。シャールの指先がセフィラの頬にそっと触れる。セフィラは小さく息を呑み、その瞳を静かに閉じた。
そして二人の唇が、ごく自然に重なり合ったのである。
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ほんの数秒にも満たない接触。しかしその一瞬は二人にとって永遠にも等しい意味を持っていた。
唇が離れた後も、二人は互いを間近に見つめ合ったまましばし動くことができなかった。先に沈黙を破ったのはシャール。
「……セフィラ」
掠れた声で紡がれた名。
「……シャール殿下」
応えるセフィラの声もまた、微かに震えていた。
それは政略によって定められた婚約者という形式的な関係性を超克した瞬間であった。